友人の紹介で「天才はなぜ生まれるか」(正高信男著 ちくま書房)という本を買って読んでいますが、その表題の以下のことばに感動しました。この著者は「認知神経科学」の学者です。
僭越ながら、最近、僕がいろんなところでお話ししていることと同じ趣旨のことが簡潔に、明快に書いてあったので、とっても嬉しくなりました。
劣っている面が存在するからこそ、それを代償しようと常になく他の能力が発揮されることがある。ふつうならば眠っているものが、目を醒ますのだ。状況が常ではないことが良い方向へ作用して、フル稼働が起きるかもしれない。結果として健常者にはない才能が発掘されることとなる。
エジソン、アインシュタイン、レオナルドダビンチ、アンデルセン、グラハム・ベル、ウォルト・ディズニーなどの天才が、みな学校教育では落ちこぼれの面があったと紹介しながら、それぞれが持っていた障害とも言える問題と、それをカバーする力を分析しています。
たとえば、アインシュタインは幼児期から耳で聞いた言葉を反復することができない学習障害を抱えていたそうですが、その反面、視覚情報を把握する能力はまさに天才的で、そこからそれまでの理論を超えた新しい宇宙のイメージを思い浮かべることができ、そこから相対性原理の発見が生まれたというのです。
今まで僕は多くの方々の様々な相談に載ってきましたが、その人の悩みを聞きながら、「そのような問題を抱えていながら、よくここまで頑張って来られましたね」と、お聞きすることが良くあります。
すると、その方々の障害とも言える問題とセットに、それをカバーする能力が見えてくる場合があります。そこで、その人が問題と思う部分を修正する代わりに、その人の欠点を補って余りある能力や人間関係に目を向けていただくようにしています。すると何人もの方が、自分を「出来損ない」ではなく、自分にはこの欠点と共にそれを補う並外れた力があるということに気づいて、自分のことを喜ぶことができるように変わって来るという場合があります。
僕の場合は、自分の神経症的な傾向のゆえに、牧師としての働きに行き詰まりを覚えていたときに、神経症の傾向を生かすという働きの仕方が見えてきて、自分の存在を喜ぶことができるようになりました。
以下の詩篇54篇はダビデが自分の仲間と思える集団から裏切られ、深い孤独を味わっていた中での生まれた祈りです。
僕もなかなか周りの人から理解してもらえなくて悩んだ時期がありますが、そのようなときにこの詩篇が深い慰めになりました。今晩もこれから上野の神学校で、詩篇の講義をしに向かいます。
詩篇54篇1–7節「私のためにさばいてください」
標題はサムエル記第一23章19節のことを指していると思われます。同26章1節でも似たようなことが記されています。「ジフ」とはヘブロンの少し南、ダビデの生まれ故郷のベツレヘムから約30㎞南にあるユダ部族の町です。
その住民はダビデと同族にも関わらず、少なくとも二度、彼をサウルに売り渡そうとしています。彼らは同族であるからこそ、サウルから敵視されるのを恐れたのでしょう。孤独だったサウルは (Ⅰサムエル22:8)、ジフ人の報告を聞き、「私のことを思ってくれた」と心から喜びます (同23:21)。
ダビデは、「神よ。御名によって、私をお救いください」(1節) と、主の御名に込められた「真実」(5節) に信頼して祈っています。
そして続けて、「あなたの権威によって、私を弁護してください」と祈りますが、「弁護する」は多くの英語訳で Vindicate と記され、自分の立場や名誉が決定的に守られるようにという訴えです。ここは、「私のためにさばいてください」と訳した方が良いかもしれません。
ある意味で、ジフ人にとってダビデは、ユダ族全体のわざわいの種と思えたことでしょう。しかし、そのような評価は、ダビデにとって耐えがたい屈辱と思えたに違いありません。
もし、あなたが自分の仲間から、疫病神(やくびょうがみ)かのように見られたら、どれほど寂しく辛いことでしょう。
3節では「見知らぬ者たちが、私に立ち向かい」と記されますが、ヘブル語では、「見知らぬ者たち」と「ジフの人たち」ということばは、近い響きがありますから、これは同族のジフ人を皮肉った表現とも言えましょう。
そして、彼らがそのように自分の都合を優先して生きるのは、「自分の前に神を置いていないからです」と記されます。彼らは神の守りを信じられないからこそ、同族を売り渡すようなことを平気でします。
それに対し、ダビデは、「神は私を助ける方」(4節) と告白し、「神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます」と語ります。
不思議なのは、二度に渡るジフ人の裏切りと、ダビデに二度にわたってサウルを殺す好機が訪れたことが並行するかのようにサムエル記では描かれていることです。
ダビデは、自分の手で「主に油注がれた」サウル王を殺すことは、主の前に罪とされると言いながら、「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる」(同26:10) と言って、主が自分の敵に「わざわいを報いられ」ることを信じました。
そのことが、ここでは、「あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください」という祈りとして記されます。
それは1節の「私のためにさばいてください」(私訳) と同じ訴えです。神の真実は、誰が「自分の前に神を置いている」かの区別を明確にしてくださることでもあります。
ダビデはサウルと戦う代わりに、必死に逃げながら、さばきを神にゆだねました。そして、サウルはペリシテ人との戦いで滅んだのです。
僕も以前、神経症的なこだわりの故でもありますが、何度も自分の正義を訴えることで、問題をこじらせたことがあります。
しかし相手に正義を訴えると、向こうも自分の正義を訴えますから、敵対関係を増幅させるだけです。
自分の立場を必死に守ろうとする代わりに、「すべての苦難から私を救い出し」(7節) てくださる神にゆだねることによって、かえって安心して、「私の目が私の敵をながめる」ような状況が生まれるのです。神のさばきに訴えることがすべての始まりです。
【祈り】主よ、私たちはしばしば自分の正義を訴えることで争いを加速させてしまいます。主の公正なさばきに信頼して、今ここで、誠実を尽くす歩みへと導いてください。

