ノーベル賞が生理学・医学賞の坂口志文先生に続き、化学賞での北川進先生の受賞が発表されました。お二人とも74歳で、とっても若さが感じられます。
何となく72歳の僕もまだまだ頑張りたいという気持ちにされました。
お二人の発言で気づいたのは、それぞれが50年前に気づきが与えられたことを、科学界の常識を超えて、追及し続けてきたということでした。まわりの専門家の見解にすぐに納得してしまっては、何も新しいことは生まれないということの証しかと思います。
僕は以前、人間の直観などに頼ってはならないと思っていました。しかし、新しい真理に目が開かれるのはやはり直観的な働きです。
17世紀のフランスの科学者で素晴らしい信仰の書を記したブレーズ・パスカルも、神の認識は理性ではなく直観に基づくと熱く語っていました。人間的には直観と言えますが、信仰的には聖霊の働きで、それで示されたことを理性を使って語ることができるというのが信仰の世界かと思います。
まったくレベルが違いますが、僕にも40数年来抱えている課題があります。それは神の救いを「恥」の観点から考えるという視点です。
救いの基本が罪の赦しにあるのは当然ですが、僕も含め多くの信仰者の悩ませているのは「恥」の感覚です。多くの人はプライドを傷つけられることによって、関係を壊します。これはまさに「恥」の感覚で、残念ながら牧師を初めとする教師に、このプライドによって人間関係をスムースにできない人が多くいます。
2年前から40年近く前の神学校時代の卒論を見直し、書き直しているのですが、多忙のため、全然、筆が進まずにいます。諦めずに進めたいと思わされました。
以下の詩篇88篇は、安易に納得する代わりに、神に尋ね続けることの大切さが歌われているように思います。諦めてはならないことがあります。
詩篇88篇1–9、13、14節「なぜ……御顔を隠されるのですか」
この詩の標題を見てもこのような祈りが記されている背景を理解することは困難です。著者は、原因不明のことで、神から懲らしめを受け、神の憤りを受けていると感じています。しかし、そのような中でも、神に「なぜ……」と食い下がっていることが、この詩の素晴らしさでしょう。
残念ながら、筆者も、多くの方々の悩みを聞いてきましたが、どこかで神に問うことを諦めてしまって、「神に祈っても無駄だ」「相談したけれど、何も変わらなかった……」と言って、教会を去って行く方がおられるからです。
ここで著者は、主(ヤハウェ)を「私の救いの神」と呼び、「私の叫びに耳を傾けてください」と訴え続けています (1、2節)。さらに自分の苦難を描きながら、それを神のみわざと解釈し、「あなたは私を最も深い穴に置かれました……あなたの憤りが私の上にとどまり……あなたは私を苦しめておられます」(6、7節) と訴えます。
しかし、それでも著者は、神を「呼び求め」続け、神に「叫び求め」続けます (9、13節)。その上で、「主 (ヤハウェ) よ なぜあなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか」と問います (14節)。
これはヨブの祈りに似ています。ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ1:1) のですが、神の許可を受けたサタンの攻撃を受け、子供も財産も失ったあげく、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で」打たれ、死の苦しみを味わいます (同2:7)。そのときヨブは、「なぜ私は……胎を出たとき、息絶えなかったのか」(同3:11) と自分の「生まれた日を呪った」というのです (同3:1)。それに対しヨブの友人は、これを神の「叱責」、「訓戒」として謙遜に受け止めるようにと迫ります (同5:17)。
それを聞いたヨブは、今度は神に向かって、「私が罪ある者だとしても……どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」(同7:20) と訴えます。ヨブは知らずに本質を言い当てました。サタンが義人ヨブを標的とすることを、神が許可されたからです。
しかしヨブの訴えを聞いた友人は必死に神を弁護して、原因はヨブの側にあると反省を迫ります。それに対しヨブはさらに神に向かって、「私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません……あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻め立てられます」(同30:20、21) と食い下がってゆきます。ここに神との対話があります。
神は「嵐の中からヨブに答え」ますが、そこには、なぜヨブが標的とされたかの答えはありません (同38–41章)。
最後に神を弁護してヨブに反省を迫った友人たちに神の燃える怒りが向けられます (同42:7)。
神を非難したヨブに神は個人的に語りかけ、人間的な知恵で神を弁護した友人は神から責められます。神はヨブの傲慢とも見える訴えを表面的には非難されますが、神が彼との対話自体を喜んでおられたのは確かと言えましょう。
神が何よりも嫌われるのは、人が自分の知恵で神を判断することです。
わざわいを原因結果ばかりで説明してはなりません。あなたの苦しみは、神の御手の中で起きています。ですから、その状況を神は変えることがおできになります。
わざわいの理由が説明できることにどれだけの意味があるでしょう。苦しみの中で、神にすがり続けることこそが、聖徒の信仰です。
【祈り】主よ、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました」(ヨブ42:2)。主よ、私は自分の苦難の中で、その意味を勝手に解釈する代わりに、あなたにすがり続けます。