昨日 (2025年10月10日)、石破茂内閣総理大臣による「戦後80年所感」が公表され、記者会見も行われました。
配布された所感全文は でご覧いただけます。
また約1時間半に及ぶ記者会見は でご覧いただけます。
公明党の連立離脱のニュースばかりが報道され、これに対する注目が少なかったことが極めて残念ですが、これは日本の歴史に残る所感だと思いました。
じっと聞きながら、涙が出るほどに感動しました。
今までの総理大臣の歴史認識の話しは、アジア各国に対する謝罪、また70年談話では、未来志向の話しがなされました。それぞれの時代においてとっても大切な意味を持っていたと思われます。
しかし、今回の所感は、「なぜ、戦争を止められなかったのか」という日本の政治システムを振り返るものでした。
中国や韓国の人々は、日本の過去の蛮行を聞きながら、日本に旅行するとそのほとんどの方が日本人の様々な美徳に接して、日本人に対するイメージを大きく変えてくださると聞きます。
今回の石破所感は、そのような美しい国が、どうして、1931年の満州事変に始まる歯止めの効かない軍隊の暴走を許したのかという分析に目が向けられています。その基本にあるのは石破さんの信念とも言える次のことばです。
「保守とは寛容であること、人の言葉に耳を傾けること」
それは過去を全否定する代わりに、良き伝統を残し、健徳的な修正を加えながら、社会を進歩させる姿勢で、何よりも真実な対話が尊重されます。
かつての「統帥権の独立」などという対話がなりたたないシステム、内閣総理大臣が陸軍や海軍に統率できず、軍部の暴走を許し、またマスコミもその軍部に同調する動きをしてしまう日本の同調圧力の問題かと思います。
日本人は理屈よりも、情緒的に自分の所属する村社会を守ることに目が向かいますが、その日本人の気質をマイナスに働かせるシステムがあったのかと思います。
それは決して、昔の問題だけではありません。日本は同じ過ちを繰り返す可能性があるということを政治システムや世論形成の観点から明確に語った所感かと思われます。
石破さんがクリスチャンと自称しながら神社参拝をする姿勢にはどうしても首をかしげざるを得ませんが、彼は「誠実」「真実」という信仰の基本をよく理解しておられる方だと改めて感じさせられました。
以下の詩篇89篇は神の真実に目を向けたものです。私たちの信仰とは、神の真実に対する私たちの応答に他なりません。
詩篇89篇1–4、38–42、49–50「真実をもってダビデに誓われた」
1、2節では主の「恵み」と「真実」が繰り返されて。喜び歌われています。「恵み」のヘブル語はヘセドで、ご自身の契約を守り通す「不動の愛」を、「真実」とはアーメンと同じ語源のことばで、主の契約の「確実さ」を意味します。
それは具体的には3、4節で歌われているように、主がダビデとの契約を堅く守り通すという約束が、決して裏切られることなく、実現することを意味します。
その約束の内容が4節で、ダビデの「裔をとこしえまでも堅く立て」、その「王座を代々限りなく打ち立てる」というものです。それはサムエル記第二7章で、ダビデが神の家を建てたいと言ったときに、神が反対にダビデの家を建て、ダビデの王座を堅く立てると言われたことに基づきます (11–16節)。
そこでは、ダビデとその子孫が不義を行うとき、神はむちをもって懲らしめると書かれながらも、サウルから王座を取り去ったようにはなさらず、ダビデの王座をとこしえまでも堅く立てると約束されていました。
しかし、ダビデの子孫は時代とともに堕落する王が多くなり、最後にはエルサレム神殿の中に異教の偶像を置く王までが現れました。
その罪に対する「懲らしめ」として、神はバビロン帝国を用いてエルサレムの町とその神殿を滅びし、イスラエルの民を強制移住させ、奴隷にように扱いました。それがバビロン捕囚と呼ばれます。それは、彼らにとっては神が、イスラエルの民を「拒んでお捨てになり」、ダビデとの「契約を廃棄」したことのように感じられました (38、39節)。
エルサレムの城壁を打ち壊したのはバビロン帝国ですが、それを著者は、神のみわざであると訴えています (40節)。そのためこの町は近隣諸国からの略奪に苦しみ、近隣諸国の「そしりの的」となっています (41節)。
そして彼はさらに、神ご自身がエルサレムの「仇の右手を高く上げ」、その「敵をみな喜ばせておられます」(42節) と、神が敵の側について、今はイスラエルの神こそがわざわいの原因となっていると訴えています。
著者はこの悲惨が、イスラエルが自業自得の罪のゆえに招いた神の「懲らしめ」の結果であると分かっています。
しかしそれでも、神に向かって「あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは 真実をもってダビデに誓われたのです」(49節) と訴えます。
ここでの「恵み」も「真実」も冒頭に記したとおりの意味です。祈りは、神への模範的な信仰告白以前に、自分が味わっている気持ちを訴えることです。それは、子供が親に訴えることに似ています。
さらに著者は、「主よ みこころに留めてください。あなたのしもべの受ける恥辱を」と、自分たちの悲惨を見てくださるようにと訴えます。子供は親から受ける「懲らしめ」を、愛の訓練と感じることはなかなかできません。
同じように私たちも、まるで神がご自身の契約を忘れ、私たちの痛みに無関心になっておられるかのように感じられます。その不安を正直に神に訴えることこそが祈りなのです。
なお、その後ダビデ王家は歴史の表舞台からは消えますが、その血筋は続いてヨセフに至り、その子イエスが「ダビデの子」として登場します。
イエスこそがダビデ契約を成就してくださったのです。イエスはご自身の十字架と復活によって、罪と死の力に、またその背後にいるサタンに勝利され、すでに全世界を治め、完成に導いておられます。
【祈り】主よ。あなたがご自身の契約を堅く守ってくださる方であることを感謝します。私たちがそれを忘れるとき、あなたの「恵みと真実」を、ダビデの子であるイエスにあって思い起こさせてください。