昨日の日本維新の会と自民党の連立政権発足に、いろんな気持ちを抱いておられる方も多いかと思います。それに危機感を持つ方の気持ちをある程度分かるつもりではありますが、今日の「みことばの光」に、小生が History(歴史)を His Story(主の物語)と書いておりますが、それも主の御手の中にあることを覚えたいと思います(だから、政権を応援すべきという意味ではありません)。
ただし、株式市場がそれを好感し、日経ダウ平均が今、5万円に近づいています。ニューヨークダウ平均も46,700円と最高値を更新中ですが、日経平均の上り幅がずっと大きいということは1990年のバブル崩壊以降、36年ぶりのことのように思います。
昨日、自宅でくつろぎながらローリング・ストーンズのレコードを聞いていました。その中のジャンピン・ジャック・フラッシュに耳を傾ていました。 で、解説と昔の動画をご覧いただくことができます。
ナンセンスとも言える歌詞ですが、薬物中毒からの復活を歌ったという解釈もあるようです。この曲は、ある時、キースの庭師のジャックが雨の中長靴を打ち鳴らしてジャンプしていたその場で目覚めたミック・ジャガーが何かと聞くと、キースが「ジャンピング・ジャック」だと答え、それにミックが Flashy(ひらめき、閃光)ということばを加え、前から黙想していたメロディーを加え、名曲が生まれたということです。惨めな過去を持つ人が、今ここで、ジャンプしながら、その場で幸福感を味わっているという歌詞になります。
僕も最近、スポーツクラブで小型トランポリンの上で音楽に合わせてジャンプしながら幸せな気持ちになることがありますから、気持ちが分かります。
今から50年前ですが、米国留学の最後に一人でニューヨークを訪ね、たまたまマディソンスクエアーガーデンでのローリングストーンズコンサートのチケットを手に入れて参加しました。この曲はそのほとんど最後で歌われたと思います。
とってもハイな気持ちになりましたが、その後の地下鉄で帰る途中、死の恐怖を味わうようなこともありました。
翌朝、マンハッタンにある古い英国国教会(聖公会)の礼拝に参加しました。そこで伝統的な式文で、イエス様の十字架の贖いが美しく歌われ、そこで罪の赦しの宣言が、心の奥底に響いて来ました。聖公会での礼拝では、十字架の赦しが音楽を通して心の奥底に伝わるような素晴らしい工夫がなされています。
その礼拝で、その少し前に信仰告白に導かれていた僕は、イエス様の救いが心の奥底に響いて来て、感動の涙を流すことができました
50年後の僕も同じことをしています。スポーツクラブで音楽に合わせてジャンプしながら、フラッシュのようなひらめきを得ることがあります (Jumpin’ Hide〈秀〉Flash)。
同時に、毎週の礼拝で伝統的な讃美歌の歌詞に深い感動を覚えています。大切なのは、今ここで、幸せを味わい、今ここで、神の赦しと守りを体験できることです。それは世の中の動きと関係なく、今ここで体験できる救いです。
詩篇91篇は、目の前に不安がある中で味わう、主の救いの歌です。
詩篇91篇1–16節「御翼の下に身を避ける」
多くの信仰者はこの詩篇を、使命のために自分の生命を危険にさらすような中で心から味わっています。ある方は、何度も危険な場に出向きながら、「私は大丈夫です。神様が、『お前は、もう生きなくても良い……』と言われない限り、私は決して死ぬことはないのだから……」と言っておられました。
私たちの地上の生命を神は守り通すことができるばかりか、永遠のいのちはすでに保証されています。「いのち」を守るのは神の責任で、あなたの責任は、神のみこころであるならば、生命の危険をも冒すことです。
1節での「隠れ場」は英語ではシェルターと訳され、自然災害ばかりか核攻撃から身を守る避難所を指します。私たちが聖書の神を自分の隠れ場とするときに、その人は不可能を可能にする「全能の神」(エル・シャダイ)の御守りの中に生きているのです。
4節の「翼の下」の描写は、親鳥が嵐や火災の中で自分の羽を広げてヒナを守っている姿を指します。モアブの女ルツはイスラエルの神の「翼の下に身を避け」て来て (ルツ2:12)、ダビデ王家の母になりました。主は、あなたがそうするのを待っておられます。
7節では6節の「疫病」や「滅び」の犠牲者となる人が回りに満ちたとしても「あなた」に関する限りは、それらの攻撃から守られているという意味です。
それが続けて、あなた自身に対する攻撃に対して、神が盾となってくださることを、あなたがその目で見るという趣旨が記されています。
攻撃は見えても、被害を受けることはないのです。なお、「悪者への報いを見る」(8節) とは、神に信頼することを知らず、神に守っていただけない人の悲劇を、悲しみつつ見るという意味合いとも考えられます。
「わざわいは あなたにふりかからず、疫病も あなたの天幕に迫りはしない」(10節) とは、6、7節を言い換えたものです。「疫病」「滅び」「わざわい」は人間のコントロールを超えたものですが、「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」(マタイ10:29,30) とあるように、私たち一人ひとりは、神の前にかけがえのない存在です。
そのことが、「主が あなたのためには御使いたちに命じて……あなたの足が石に打ち当たらないようにする」(11、12節) と記されます。これはイエスが荒野の誘惑で、神殿の屋根の端から身を投げるように誘惑された際に、悪魔が用いたみことばです。
イエスはそれに対し、「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると言われました。神の守りは、神のみこころに従って危険を冒さざるを得ないときに体験するものだからです。
そのことを14節で主は、「彼がわたしを愛しているから……わたしは彼を高く上げる」と言われます。「神について知る」ことと、「神を知る」ことは決定的に違います。
信仰の基本は、神との個人的な関係です。神がこの私一人に目を留めておられるということを知ることです。
私たちは、神との祈りの交わりの中で、神に従い、神の御守りを個人的に体験して行きます。ここに記されていることは、私たちが神の召しにしたがって、人生の荒波に向かう人に必要な励ましと慰めです。様々な不条理が目の前に見えます。しかし、神はあなた一人に語りかけ、応答を求めておられます。
【祈り】主よ、サタンが、様々な不条理や悲劇を私たちの目の前に見せながら、神の「翼の下に身を避ける」ことが無益だと訴えて来るとき、どうかこの詩篇のことばを私個人への語りかけとして理解させ、あなたの招きに従えるように守ってください。

