ですから、以下はあくまでも日本文化の観点からのお話しです。
昨日の高市総理大臣の所信表明演説の最後に、聖徳太子に由来すると言われる十七条の憲法が引用されました。彼女はその第十七条の「独り断むべからず、かならず衆とよく論ふべし」を引用し、「独断ではなく、共に語り、共に悩み、共に決める営み」を大切にしたいと言われました。
十七条の憲法の最初は、「和をもつて貴としとなし、さからうことなきを宗となす」です。とにかく最初と最後で「みんなで決めて、みんなで従う」ということが唱えられています。
しかし、これと対照的なのはドイツです。そこでは「この問題の解決の決断は誰に委ねられているか」という権威を何よりも大切にします。多くの欧米の政治はそのような権威の所在を明確にすることによって、危機に敏感に対応できる形になっています。間違った決断は、後で正すことができますが、だれかが決断しないこと自体がより大きな問題を生む可能性があるからです。
日本の古典の古事記で、アマテラスオオミカミが弟のスサノオのミコトの乱暴に耐えかねて天の岩戸に隠れた話があります。世界が真っ暗になり、みんなが知恵を出し合って、どうにかアマテラスオオミカミに岩戸から出てもらって、その後、みんなで話し合って、スサノオのみことに高天原から出てもらうことになりました。
しかし、これは物の見方によっては、アマテラスオオミカミが最初に自分で決断することをためらって、目の前の問題解決から逃げてしまい、みんなで決める形に持って行ったとも考えられます。日本の神話の原点から、最高権力者は決断せずに、みんなで決めるという形に持って行くことが日本的な和の保ち方とされているのです。
高市総理は政治の責任者が「責任をもって決める」という形を取ろうとしているように見えます。それこそが激動の時代に対応できる政治スタイルだからです。
しかし、一方で、演説の最後に、「独断ではなく」ということを強調されました。激動の時代に対応する政治力は、やはり日本的な問題の先延ばしではなく決断が求められています。しかし、同時に、日本的な美徳として、「共に語り、共に悩み、共に決める営み」という「和」を生み出すプロセスも大切なのかと思わされました。
以下の詩篇93篇は、全能の主のご支配への信頼が歌われています。その背後には、人間は繰り返し間違うという謙虚さがあります。
しかし日本の問題は、「みんなで決める」というプロセスを経た決断は、それ自体が正義になるということかと思います。真の権威を知らないために、「みんなで決めた」ことに逆らこと自体が悪とされることが、悲惨な歴史を生み出したことも忘れてはなりません。
詩篇93篇1–5節「御座は堅く立つ」
この詩篇のギリシャ語七十人訳には「安息日の前日のために、地に人が住んだとき、ダビデの賛美の歌」という標題がついています。たしかにこの詩篇はユダヤ人の会堂において伝統的に安息日の前日に歌われてきたとのことです。この詩篇は先の詩篇92篇8節を中心とした神のご支配をより明確に描いたものと言えましょう。
最初のことばは、「主 (ヤハウェ) は(王として)治めておられる」と動詞として訳すのが原文に忠実です。
続けて、「威光をまとっておられます。まとっておられます、主は、力を帯とされて。まことに堅く据えられています、世界は、揺るぎません。堅く立っています、御座は、いにしえから。とこしえから、あなたは」という語順で記されています。
つまり、世界が堅く据えられていることと、神の御座が永遠に堅く立っていることが切り離せない関係なのです。
私たちは、「神が全世界を治めておられるなら、なぜこのような異常気象や自然災害が起きるのか?」と思いがちですが、火山活動で生まれた日本列島の上で、ほとんどの日々を平穏のうちに暮らしていること自体が不思議とも言えます。
たとえば古事記では「伊邪那美神は、火の神を生みたまいしに因りて、遂に神避りたまいき」と描かれます。これは伊邪那岐とともに日本列島を生み出した最後に、伊邪那美が火山を産んで火傷して、黄泉の国に下ったという神話です。
つまり、火山活動は神をも死に至らしめるものと見られているのです。それに対し、古事記の二千年近くも前に記されたこの詩篇では、この世界の天変地異をはるか上から支配する主 (ヤハウェ) の圧倒的な「威光」と「力」が歌われています。
ときおりの自然災害は、すべてが平穏に守られること当たり前ではないことを示す、神を恐れることへの招きとも言えます。
3節では、「川はとどろかせています」と三度も同じ言葉が繰り返され、大洪水の恐ろしさが描かれます。
イザヤ8章7、8節ではユーフラテス川の氾濫が、アッシリア帝国の包囲がエルサレムの首にまで達することにたとえられています。
同時に、「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす」と、絶対絶命の危機下で神の救いの御手がインマヌエル(神は私たちとともにおられる)として示されると描かれています。
そして4節では3節2行目の「轟音」と同じことばを用いて「大水の轟音(とどろき)にまさり 力強い海の波にもまさって 主 (ヤハウェ) は力に満ちておられます。いと高き所で」と、神が天の神の御座からこの世界を確実に支配していることが歌われます。5節の「あなたの証し」とは複数形ですが、それはこの広大な宇宙や美しい地上の景色、また歴史に現わされた神のみわざの数々を指します。
先の92篇6節にあったように「無思慮な者」「愚か者」には、その不思議が理解できないだけです。
そして続けて、「あなたの家には」とエルサレム神殿のことが示唆され、そこが「聖なる」美しさによって飾られているようすが描かれています。そして最後に、「主 (ヤハウェ) よ いつまでも」と閉じられますが、これは2節で繰り返された主のご支配の永遠性を歌ったものです。
私たちは、置かれている世界の揺るぎやすさを体験して初めて、すべての安心や安全が当たり前ではなく、神の圧倒的なあわれみのご支配の賜物と理解できるのです。
【祈り】主よ、あなたが全世界の王として、この世界を堅く立てていてくださることを感謝します。自分の世界が崩れ落ちるような恐怖を味わうことがあっても、それを通して、神の永遠のご支配が、この世界を保ち続けていることを覚えられますように。

