新渡戸稲造は日本の「武士道」とキリスト教精神に共通点があることを描き、その著書は国際的なベストセラーになりました。確かに高い道徳律という面では共通点があるのでしょう。
ただし、伝統的な武士道精神では、どのような状況下でも心の平静さを保つことができるように、自分で自分を律することが求められます。しかしふと、「それができるなら、どこに神にすがる必要があるのだろう」とも思います。
私は長い間、心を平静に保つことができない自分の信仰の未熟さを責めてきました。しかし、だれからも勇士の代表と見られるダビデの祈りを知ったとき、ほっとしました。彼は自分の気持ちを次のように表現しているからです。
「私の心は奥底から悶(もだ)え、死の恐怖に襲われています。恐れとおののきにとらわれ、戦慄(せんりつ)に包まれました」(4、5節)
彼は四つの並行文で、自分の恐怖心を優しく受けとめ、それを神に訴えています。自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのままことばにしています。それこそ、感情に振り回されないためのステップではないでしょうか。
ダビデは少年時代、羊を襲うライオンを追って、そのひげをつかみ、打ち殺したと言っています (Ⅰサムエル17:35)。その彼が自分の気持ちを独りぼっちで身体を震わせている少女のように描き、その微妙な感情を優しく丁寧に受け入れています。感情を、いじることも解釈することもなく、自分のたましいに向かって「おまえは不安なんだね……寂しいんだね」と言ってそれを優しく受けとめています。
その上で、ただ「主よ。私は不安です……寂しいです」という祈りに変えることができるなら、そこに新しい世界が広がってきます。それは、心の奥底で神との交わりを体験する絶好の機会になります。しかし、自分の気持ちを優しく受けとめられない人は、ほかの人の気持ちも受けとめられないばかりか、神との交わりも浅いものに留まってしまうのではないでしょうか。
「勇気とは、祈りの中で述べられた恐怖心である “‘Mut ist Angst、 die gebetet hat!’ (Corrie ten Boom) Courage is fear that has said its prayers.”」ということばがあります。そこでは、その場の恐怖から逃げ出したいという正直な気持ちをも主に告白する中で、自分自身の心の「隠れ家」が、今ここでの主との交わりにあることに気づかされます。
それこそこのことばを述べたオランダの信仰の勇者コーリー・テン・ブーンの証しでもあります。彼女とその家族は、延べ800人ものユダヤ人を助けたという反逆罪でナチスの強制収容所に入れられましたが、彼女と姉は強制収容所で聖書研究会を開き多くの人を救いに導きました。その後、コーリーだけが奇跡的に生き延びて、ドイツ人とユダヤ人の和解の福音を語り続けました。
1.「ああ、鳩のような翼が私にあったなら……」
それに続く6節の「ああ、鳩のような翼が私にあったなら。そうしたら、飛び去って、休みを得ることができるのに」という祈りを最初に読んだとき、思わず微笑んでしまいました。それは私が常日ごろ、自分に向かって「この問題から逃げ出そうとせずに、しっかりと向き合え!」などと叱咤(しった)してきたからです。
しかし、私よりはるかに勇敢なダビデは、逃げ出したいような自分の気持ちにも優しく寄り添っています。
ただし、ダビデは逃げ出したいと告白しながらも、「荒野」を「隠れ場」と描いています。それは人の目からは、だれの保護も受けられない孤独で不毛な場所でしょうが、だからこそ「神だけが頼り」となります。
つまり彼は、「翼が私にあったなら……」という白昼夢に逃げているようでも、「あらしと突風」のただ中で、そのたましいは神のみもとに引き上げられているのです。それは、「密室の祈り」と呼ばれる一対一で神に向き合うときに体験できる恵みのときです。そこでは神ご自身との関係から新しい世界が広がります。
2001年にスイスで開かれたハンズ・ビュルキ先生による牧師向けのセミナーでのことですが、私があることへの感想を述べた時、それが自分の問題を他者のせいにしているような部分があったのを先生は鋭く察知し、厳しく突っ込んで来られました。私は皆の前で恥をかかされた気持ちになりました。
その時、先生は、皆に向かって「彼に安易な慰めの言葉をかけてはならない」と命じられました。また私には、「湧いた感情をいじってはならない。自己弁護してはならない。受けるべきケアーを受けられなくなる……」と言われました。しばらく悶々とした気持ちでいましたが、徐々に予期しない形で不思議な慰めが与えられ、一週間近く経って、黙想の時に読まれたみことばが、心の奥底に迫って来て、感動に満たされました。
後で先生が、「説明は、多くの場合正しくない。弁解の延長線上にあるからだ。『自己弁護する (excuse) 者は、自分や人を非難 (accuse) している』と語ってくださいました。それはフランス語の諺 qui s’excuse s’accuse に由来します。私はそれまで、何か悪いことが起こると、自己弁護をしたり、人に慰めを求めたり、また、自分で自分をカウンセリングし続けてきたように思えました。本当の意味で、問題を抱えたままで神の御前に静まり、神の解決を待ち望むということができていませんでした。
しかし、ダビデは、この祈りを通して、恐怖に怯(おび)えた心を、そのまま神に献げました。その結果、彼の心は、まさに鳩のような翼を得て、神のみもとに引き上げられ、安らぐことができました。
そして、彼は自分のいのちを狙(ねら)う人々の手から逃れるときに、驚くほど冷静な判断を下しながら、同時に、明日への布石を打つことができました。
1–8節の祈りを十九世紀ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンが「わが祈りを聴きたまえ」(hear my prayer) という十分間余りの曲にしています。
暗く重い調子で始まった音楽が、「ああ、鳩のような翼が私にあったなら」というところから、すみきった希望の調子に変わります。それは、自分の暗く沈んだ気持ちを正直に神に訴えながら、しだいに、たましいが神のみもとに引き上げられ、やすらぎを得てゆく展開を表しています。
全能の神の助けを前提としない武士道の世界では、心の内側に湧き起こった感情を自分で制御する必要がありますが、私の場合はそうしようとすればするほど、心に空回りを起こしました。
またそこには、人の前で心の平静を取り繕おうとする偽善が生まれる可能性があります。しかも心理学的には、不安こそ、怒りの第一次感情であると言われますが、不安を押し殺してばかりいると、不機嫌を撒(ま)き散らして周りの人を傷つけたり、また、自分を責めて鬱(うつ)状態になることがあります。
あなたはどうでしょう。神ご自身があなたの心の奥底にご自身の恵みを注ぎたいと願っておられます。妙な強がりを捨て、あわれみに満ちた神に心を開いてみましょう。
2.「私をののしる者が敵ではありません……しかし、おまえが……私の親友が」
ダビデはかつてサウル王から命を狙われ、死と隣り合わせの逃亡生活を続けざるを得ませんでした。そのとき同族の者たちからも裏切られました。
また、王権が安定した後にも、息子アブサロムの反乱によってエルサレムから逃げざるを得ないことがあり、そのときは自分の顧問であったアヒトフェルに裏切られ、「主 (ヤハウェ) よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31) と必死に祈ったほどです。
そのように人から裏切られた痛みが、「私をののしる者が敵ではありません。……しかし、おまえが。私と同等の者、私の友、私の親友が……。私たちは親しい交わりを楽しみ、神の家へと群れの中を歩いたのに」(12–14節) と描かれています。この詩はそのような危機的な状況の中で生まれました。
最初のことばは、「聴いてください!」という必死の叫びです。それは神が、「私の訴えから、身を隠している」ように感じられたからです。
著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいるのですが、神は何もしてくださらないかのようです。そして同じような強い訴えが、9節で「絶やしてください!」と、自分を裏切った人への神のさばきがすみやかになされるようにと記されます。
1–5節に記されたような絶望的な気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。私たちは、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私はうろたえ、うめき、わめくばかりです」(2節) という感情を味わうかもしれません。そんなとき、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。
その時、ゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38節) と悶え苦しまれたイエスに出会うことができます。神の御子は、そのような悲しみをともに味わい、担うために人となられました。
イザヤは、それを、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた……まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った」(イザヤ53:3、4) と預言しました。イエスは、私たちの心が些細なことで混乱することを、軽蔑することなく、いっしょに悲しんでくださる方なのです。
「置かれたところで咲きなさい」という著作が三百万部越えの大ベストセラーになったシスター渡辺和子さんは36歳で岡山のノートルダム清心女子大学の学長になりましたが、50才の時にうつ病になり、自殺を考えるほどになり、二年かかってやっと回復しました。
そのとき一人のクリスチャンドクターは、「シスター、運命は冷たいけれども、摂理は暖かいものですよ。今、あなたが病気になったいうことは、運命ではない、神様のお計らいなのです」と言われました。そして、そのうつ病の体験が、いつしか感謝に変わったとのことです。
彼女はそれによって、他人の優しさと自分の傲慢さに気づかされ、「人生にポッカリ空いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる」という名言を残し、2026年に89歳で天に召されました。
3.「主 (ヤハウエ) は私を救ってくださる」
ダビデはそのうえで、逃げ場のない自分の現実を、9節の「絶やしてください。主 (ヤハウェ) よ」以降の祈りで描きます。これは自分の力では解決できない問題です。
彼の住む町の中には、「暴力と争い」「不法と苦しみ」「虐げと欺き」が満ちているというのです (9–11節)。人によっては、現在の職場がそのような環境かもしれません。逃げ出したくても、生活のためには逃げられません。
そればかりか、最も近しいはずの人が最も恐ろしい敵となっていることだってあり得ます。しばしば、彼らは自分の悪意を巧妙に隠しながら「滑らか」で「優しい」言葉を用いて語りかけてきますが、そのことが21節では「彼の口はバターより滑らかだが、その心には戦いがある。彼のことばは香油よりも優しいが、それは抜き身の剣である」と描かれています。
多くの場合、彼らは悪意を抱いていたとしても、「私はあなたのためを思って」と言いながら、実際には「そのままのあなたには生きている資格がない」という隠されたメッセージを伝え、生きる気力を奪い取っているのかもしれません。残念ながら内側に悪意を隠した美しいことばは意外に多くあることです。
16節の「私が、神に呼ばわると、主 (ヤハウェ) は私を救ってくださる」という告白は驚くべき展開です。そこでは不思議に「神」と「主 (ヤハウェ)」という言葉の使い分けがなされます。
ここではまず「私」という人称代名詞が、23節と同じように特別に強調されています。これは、「私」が、神のご性質を漠然としか知らないまま、ただ切羽詰って「神様!」と呼ばわるようなときにも、主(ヤハウェ)は「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) というご自身の名をパーソナルに示しながら、親しく私に答えてくださるという意味と解釈できます。
主(ヤハウェ)は、あなたの祈る前から、それを知っていてくださると詩篇139篇4節に記されていました。
そして、「夕、朝、真昼、私はうめき、嘆く。すると……」(17節) とは、私たちが一晩中ばかりか翌日の昼まで「うめき、嘆き続ける」様子を、神はじっと聴き続けた上で、初めて答えてくださるというリズムが表されているようです。
神の答えは、遅すぎるように感じるのが常だからです。私たちは、「主は私の訴えを聞いてくださる!」という実感を味わう前に、余りにも早く訴えるのを諦めてしまってはいないでしょうか。
私たちの目の前には、神が「私の訴えから、身を隠しておられる」(1節) と思える現実が繰り返し起こるかもしれません。
しかし、ダビデは、苦しみのただ中で、諦めることなくじっと祈り続けることを通して初めて、自分の訴えの声が確かに神に届いていたことを、繰り返し体験することができました。それは頭での理解ではなく、腹の底からの確信となりました。私たちも同じ体験をすることができます。
なお先の「絶やしてください!主よ、彼らを……死が襲いかかれば良い……」(9、15節) という表現は、「のろい」を祈っているように感じられます。しかしそれは、自分の気持ちを正直に神に述べ、公正な裁きを訴えたものであり、復讐ではありません。
これは1節の「聴いてください!」という切実な訴えと重なるこの詩篇の核心部分です。自分を敵視する人が自分を取り囲んでいる現実があるからこそ神を遠く感じるのです。
しかしそのような気持ちを切実に祈った結果、ダビデは自分で戦おうとしなくても、神が「迫り来る戦いから、このたましいを平和のうちに贖い出してくださる」(18節) と告白できるように導かれました。
私たちは、しばしば、神のさばきを信じることができないからこそ、敵を赦すことができないのではないでしょうか。
4.「ゆだねよ!主 (ヤハウェ) に、あなたの重荷を」
このような「私」を中心とした祈りの後に、突然、「ゆだねよ!主 (ヤハウェ) に、あなたの重荷を」(22節) と、他の人への勧めが記されます。
これは、神の沈黙に悩んでいたダビデが、「私の祈りは答えられた!」という実体験を経た上で、周りの人々や後世の人々に、神への信頼を訴えるという優しさがあります。しばしば、これに至るプロセスを飛び越えて、この「勧め」ばかりが強調される場合がありますが、それは人の心の繊細さや揺れを軽蔑した心の暴力になりかねません。
そう簡単に、目に見えない神にすべてを任せきることができるぐらいなら、神の御子が人となって十字架にかかる必要などなかったことを覚える必要があります。イスラエルの民は、それを繰り返し聞きながら、実行できなかったということを忘れてはなりません。
信仰は人のわざではなく神が生み出してくださるものです。しかも、「ゆだねる」の本来の意味は「放り投げる」ことで、自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま全宇宙の支配者であるヤハウェの御前に差し出すことです。
わたしたちは、「あなたの御心のままに……」と祈る前に、自分の混乱した感情を、正直に、あるがままに注ぎ出す必要があるのではないでしょうか。
マルティン・ルターはこれに関して次のように記しています。「このようにゆだねる(放り投げる:Werfen)ことを学ぶことができた者は、それが確かに真実であることを体験している。
しかし、そのような委ねる(放り投げる:Werfen)ことを学ぶことができなかった者は、投げ捨てられた (verworfen)、仲たがいさせられた (zerworfen)、屈服させられた (unterworfen)、投げ落とされた (abgeworfen)、ひっくり返された (umgeworfener) 人間のままに留まらざるを得ない」
それにしても「主は、あなたのことを心配してくださる」とは何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることだからです。
現代の飽食な世界の問題は、「悩みを抱える力」が衰えていることですが、その力を神は与えてくださいます。
それを前提に新約では「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:5–7) と記されます。この「神」を「あなた」と呼び、私を「高く上げてくださる」という告白から You raise me up の歌が生まれました。
最後に、「主は、正しい者がいつまでも揺るがされるままにはされない」(22節c) と記されますが、主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者に他なりません。そのような人を、主は「いつまでも揺るがされるまま」には放置されず、試練の中で立つことができるように支えてくださるのです。
しかし、神を忘れ、自分の強さを誇っている者は、死後のさばきを受けるか、「自分の日数の半ばも生きられません」と言われます (23節)。
病院で手術を受ける患者さんなどに、「大丈夫」と書かれた小石を手渡し、握らせながら、「あなたが願っているようになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫の小石なのですよ」と言ってくださる方がいたそうです。そのように私たちの不安に寄り添ってくれる人は本当に支えになります。
しかも、私たちの主イエスは死の力に打ち勝つことで、人生の途中に何が起ころうとも最終的な勝利が保証してくださいました。
それでどんなときも、「それゆえ、私は、あなたに、より頼みます」(23節) と告白できます。ヒトラーのナチスドイツに多くの教会が妥協をしてゆく時期に、ディートリッヒ・ボンヘッファーが、生きたキリスト者の交わりについて記した「共に生きる生活」(1939年) は今も、多くの人々から愛読されています。
彼は、そこで共同体としての賛美歌が斉唱(ひとつの声)によって歌われるべきことを強調する一方で、多くの詩篇は並行法を生かした二つの声で朗読されるべきこと、そして、詩篇を、神であり人であるキリストご自身の祈りとして再評価すべきことを訴えています。
一方で彼はその際、多くの人が、独りでいることを恐れるからこそ交わりを求めることの問題、また交わりを自分自身からの逃避の手段とすることを厳しく戒めています。なぜなら、ドイツの破局は、それぞれのキリスト者が、一人で神の前に立つことを忘れた結果でもあるからです。
そして、これは集団主義的な日本の教会の問題でもありましょう。キリスト者の交わりは、自分の不安や寂しさを、相手構わずぶちまけるような共依存的な関係になってはなりません。
ボンヘッファーは、「ひとりでいることができない者は、交わりに入ることを用心しなさい。彼は自分自身と交わりをただ傷つけるだけである。神があなたを呼び給うたとき、あなたはただひとりで神の前に立った……ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかった……あなたは自分自身から逃れることはできない」と語っています。
ただし、これは交わりの中にいることと不可分です。
私たちの心は、いつでも、どこでも、霊的な意味での、「鳩のような翼」をもって神のもとに憩うことができます。その導きがこの詩篇です。
交わりの中で、自分と他者の声を交互に聴きながら、このたましいの叫びを読むとき、不思議な安心が生まれることでしょう。そして後は、ひとりで自分の心を注ぎだして祈ることができます。そのような神との交わりこそ、人との交わりの力の源泉となります。
その際、改めて以下の三つのことを覚えたいと思います。
第一は、私たちの中に入っている誤解を正すことです。私たちは無意識のうちに、自分で自分の心を制御できる力が信仰だと誤解している場合があります。しかし、自分で自分の心を制することができる人には、イエスさまもイエス様が祈られた詩篇の祈りも必要ありません。
第二は、自分の中にある恐怖心を祈りに変えるということです。自分の心の傷つきやすさ、ある種の敏感さを、やさしく認め合う……そのような分かち合いができたらよいかと思います。既に述べたように「言い訳をする者は、人と自分を責めている」ということわざがあります。
自分のうちに湧き上がってくるすべての感情を優しく受け止めるための黙想の時を持ってみてはいかがでしょう。決して、答えを自分で発見しようとしてはいけません。神の導きを待つのです。
第三は、主が祈りに答えてくださったということを思い越すことです。ただそれは、主の沈黙に苦しんだ後の、正直な体験が良いと思います。まだそれが不十分と思われる方は、その時が来ることを静かに待っていただければと思います。
「主は私の祈りを聞いて下さらない……」と、失望を味わった後に生まれた体験ほど貴重なものはありません。神の前で失望している気持ちを素直に認めながら、同時に、主がご自身のあわれみを示してくださることを静かに待つことができるなら。そこに新しい世界が始まります。
あと少しの辛抱で世界が変わるのです。

