私たちはキリストにあって「闇の支配」から「光の支配」の中に移されました。そのことが「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光のこどもとして歩みなさい」(エペソ5:8) と記されます。それこそ「救い」の意味を簡潔に現わします。
それは私たちの生き方がかつて、知らないうちにサタンの支配下にあったことを指しますが、そのような理解が、一人ひとりが創造主の愛の御手の中でユニークに創造されたことを忘れさせることになってはいけません。自分の出生を悪く見すぎることにも問題があります。
今日のメッセージのテーマは「神の最高傑作として生かされる」です。詩篇139篇13、14節は「それは あなたが、私の奥深い部分を作り、母の胎の中で組み立てられたからです。私は感謝します。恐ろしいほどに私は不思議に造られました。あなたのわざは なんと不思議でしょう」と訳すことができます。
1.「主よ。あなたは私を知っておられます。」
この詩は「主 (ヤハウェ) よ」という神の御名への呼びかけから始まります。神はご自身を「わたしは、『わたしはある。』という者である」(出エジ3:14) と紹介されました。それは、この方がすべてに先立って存在し、すべてのものを生み出す方であるということを示しています。
多くの人々は、自分の必要から始まって神を求め「私が神を認識する」いう考え方をします。しかし、「わたしはある」または「わたしはあらしめる(生み出す)」と宣言される神がおられるので、私がここに生き、また、考え、語っていると認識すると考えることができます。つまり、全能の神のご支配を前提としてこの世界を見るのです。
神の前から自分を隠したアダムの子孫としては、自分の罪、弱さ、醜さが顕にされることを恐れますが、キリストが既にすべての罪を赦してくださったことが分かるとき、「神様は私を助けようとして、私の弱さを探ってくださる」という気持ちになることができるのではないでしょうか。
2節後半の「遠くから私の思い(意図)を……読み取られます」とは、私が行動に移す前から、神は私の「意図」を知っておられるという意味です。同じように神は、私がいつ、どうして活動し、休むのかなど、「私の道すべてを知り抜いておられ」、また、「ことばが私の舌にのぼる前に」、何を話そうとするのかもご存じだというのです。
ですから、「私は、自分で自分のことが信じられないんです……」という不安に襲われるようなときでさえ、「あなたはそのすべてを知っておられます」(4節) と言うことができます。そこでは、自分が知られていることが、「恐れ」ではなく、はかり知れない「安心感」の源とされています。
5節の「あなたは前からうしろから私を取り囲み」(5節) という表現も、「キリストの愛が私たちを捕えている(取り囲んでいる)」(Ⅱコリント5:14) という感謝として理解できます。
明日のことが心配で元気を失うときにも、私以上に私のことを知っておられる方が「私を取り囲み、御手を私の上に置かれました」(5節) と信じられるなら、「神様。明日は何が起こるのか楽しみです!」という喜びの源になるのではないでしょうか。
そして6節の「そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて及びもつきません」という告白は、私たちにとっては想像を超えた神秘ではありますが、それは「恐怖」というよりは、感動を呼び起こす「不思議」と言えましょう。そしてこの「不思議」こそがこの詩篇の鍵のことばです。
しかし7節以降は、人には、神のご支配を嫌って、神から離れて生きたいと思う傾向があると描かれます。7–10節は、逃げ道がないという恐怖か、神がどこまでも私たちを守ってくださるという安心感か、両方の意味の訳が可能です。
確かに7節からの文脈では、自分を神から隠したいという思いで「闇よ 私をおおえ」(11節) と言ったとも解釈できます。しかし4節で「あなたはそのすべてを知っておられます」と告白し、また13、14節とのつながりを考えると、「たとい私が 『ああ 闇が私をおおい 私の回りの光が夜となる』と言っても あなたには 闇も暗くなく 夜は昼のように明るく 闇も光のようです」と訳すことができます(多くの英語訳も同様)。
これは、「私の人生は今まさに、真夜中に向かっている」と感じられるような中でも、「神にとって闇は問題ではなく、いつでも私を見守っていてくださる」という慰めとして理解することができます。
その上で13節は、私たちが人生の暗闇を恐れる必要がないという理由が、「それは あなたが、私の奥深い部分(腎臓)を作り、母の胎の中で組み立てられたからです」と記されます。新改訳で「内臓」と訳されたことばは、原文で「腎臓」と記され(脚注参照)、いけにえの動物を屠(ほふ)るとき最後に出てくる器官で、体の最も奥深い、暗やみに包まれた部分です。ですから「奥深い部分」と訳すこともできます。
それは、神が真っ暗な「母の胎のうちで」、その隠れた部分を造られた方なので、どんな時でも私たちの人生のすべてを理解しておられるという意味になります。当時は、「心」が心臓にあるように、「感情」の座は「腎臓」にあると理解されていました。それでここは、「神は、私たちが自分で制御できないような感情をさえ造られた方なので、何も隠す必要はない」という趣旨として理解すべきでしょう。
人は心の内に沸き上がる気持ちを正直に受けとめ、神に訴えることができます。それがどれだけ大きな特権であるか、しばしば忘れられていることがあります。私は自分の神経症的な傾向のゆえに自分の感性を恥じていました。特に問題になるのは、目の前に生まれた刺激に過剰に反応してしまうことです。そして七十歳近くになって、コロナ禍の困難もあって、自分の心のある種の過敏さに直面せざるを得なくなりました。
そして自分にはHSP (Highly Sensitive Person: 高度に敏感な人格) の傾向があるということを再発見しました。人口の五分の一ぐらいの人にこの傾向が見られるとのことです。
その概念の開発者は、「他者にとってHSPの明確な問題は、他の人より『過剰に反応』することである。私たちは少数派なので、当然、多数派の反応とは異なる。HSPに欠陥があるように見えるのは、この刺激や感情に対する過剰な反応のせいである」と記しています。
私自身も以前、その過剰な反応のゆえに、ある牧師から、「あなたは牧師にふさわしくないかもしれない」とまで言われたことがあります。実際、あることが心に刺さってしまうと、すぐに激しい反応をしてしまい、振り返って見たら、小さく納めるべき問題をかえって大きくしてしまったということが何度もあります。
ただ、私が自分のHSPの傾向に気づいたのは最近ですが、それ以前に数多くの詩篇に描かれた混乱した感情表現に出会って「ここに自分の気持ちが書いてあると感動するとともに、それを詩篇の解説書として記させていただき、多くの方から、「先生は、私が味わってきた葛藤や不安を言語化してくれた」と感謝されることが何度もありました。
2.「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました。」
続く14節の告白を、以下のように訳させていただきました。「私は感謝します。恐ろしいほどに私は不思議に造られました。あなたのわざは なんと不思議でしょう。 このたましいは それをよく知っています」
最初の行では、「恐るべきこと」「私は不思議にされた」という二つの単語が並んでいます。またそれに続き「不思議にされたもの」と記され、6節にあった「不思議」という鍵のことばがここでは二回繰り返されていることを、聖書翻訳では、誰にも分かるように表現されるべきかと個人的には思わされています。多くの英語訳では I praise You、 for I am fearfully and wonderfully made と記されています (ESV、KJV、NRS等)。
「恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」(14節) とは不思議な感動に満ちた自己認識です。人はしばしば、本来の自分を否定して、「今までの自分とは違う何かになろう」として病気になってしまうことがあります。しかし、つまずきを通して、「本当の自分になり得たとき」に、病気から回復することができるとも言われます。
レーナ・マリヤさんというスウェーデンのゴスペル歌手は、生まれつき両腕がなく片足も半分の長さしかありません。その彼女がこの詩篇139篇の英語訳をそのまま歌にし、神に向かって「私はあなたを賛美します。なぜなら、私は恐ろしいほどに、不思議に(すばらしく)造られたからです」とまごころから歌っています。人の目から見ると彼女は重度の障害者かもしれませんが、彼女は自分を「神の最高傑作」と見ているのです。
彼女のお母様は最初、「神よ。どうして」と思ったこともあったとのことですが、やがてそのいのちが、神ご自身の最高の作品であることを感動するようになりました。その感動をお母様はレーナ・マリヤに伝え続けました。それ以上に、彼女には生まれながら、その障害を補う好奇心や冒険心が与えられ、育まれ、驚くほどに広い活躍の場が開かれてきました。彼女は右足だけで、ピアノを演奏し、作曲をし、料理も裁縫も楽しみ、車も運転します。彼女の全存在がいのちの喜びを驚くほどに伝えていますが、身体の障害は、かえってその感動を伝える媒体として豊かに用いられています。
私たちは、障害や欠点と美しい賜物を区別して考えますが、それは切り離せない統合されたものとして神の作品なのです。
今回の旅行で、バルセロナのサクラダファミリアの礼拝堂に感動しました。聖書のストーリーは外の壁にすべて美しく彫刻されていますが、内部は極めてシンプルに天の光に包まれる感動を味わうように設計されています。
そこで円錐形で細くなる高い天井に吸い込まれるような気持ちの中で、自分自身が暗い母の胎の中で、実は神の光の中で、神の最高傑作として創造されたという感動を味わうことができました。
昔から性格の三分類が一般的ですが、それは神から与えられた特徴として受け入れるべきものではないでしょうか。イエスの三人の重要な弟子の気質を次のように分類することも可能かもしれません。
第一は分裂気質(内面が分りにくい性格)で、使徒ヨハネにはその傾向が見られます。彼は、自分を「主の愛された弟子」と紹介しながら、自分のことをほとんど明かしません。このような人は、人と親密になることを恐れる傾向があり、とてつもない敏感さと、鈍感さが共存しています。しかし、距離を置きながらも、人をよく観察する目があることで交わりを保つことができます。彼による他の弟子の描写は見事です。
第二は循環気質(浮き沈みのある性格)で、使徒ペテロに見られる傾向です。非常に勢いの良いことを言っていながら、失敗して深く落ち込むことがあります。爽快と悲哀の感情の起伏が激しい性格ですが、三度の否認などの自分の失敗などをオープンに語ることができるので、多くの友に支えてもらえます。
第三は粘着気質(こだわりの強い性格)で、使徒パウロに見られる傾向です。回心前はパリサイ人として迫害に熱心で、回心後は地の果てまで伝道し、使徒の代表ペテロまでも叱責し、牢獄に入れられても多くの手紙を残しました。一見、沈着冷静でありながら、急に怒り出したり、人を追い込むところがあります(使徒15:36-39、マルコを巡ってバルナバと反目)。しかし、忍耐心が豊かなので、失敗をカバーできます。
それぞれ、感受性での敏感と鈍感、気分での爽快と悲愁、精神的テンポの速さと遅さという矛盾が共存し、対人関係の弱さを補う「観察」、精神的な落ち込みを補う「交わり」、感情的な失敗を補う「忍耐心」が与えられています。つまり、それぞれの気質に、神は絶妙なバランスをお与えになっているのです。
これとは別に、ユングは、心の構えが自分の外の客体に向かう外向型と、自分という主体に向かう内向型の発想の違いが様々な誤解や対立を生んだと分析しました。
使徒の中で外向の代表はアンデレでしょう。人と人とを結びつける働きをしているからです。内向の代表はトマスかもしれません。イエスの復活に関して皆の目撃証言を客観的現実と受け止める代わりに、自分自身で心の底から納得できることを求めました。「内向」は決してネクラという意味ではありません。
また、それぞれでの意識機能が合理性的機能としての思考と感情、非合理的機能としての感覚と直感に区別されます。それぞれに、マタイ、ルカ、ピリポ、ナタナエルを当てることができるかもしれません。
マタイの福音書は驚くほどの論理的な構成で成り立っており、イエスの説教を秩序立てて記録しています。ルカの福音書は、私たちの感情に寄り添う表現が豊かで、読むだけで心が動かされる例話が豊富です。
ピリポは、現実感覚に優れ、男だけで五千人の群集にどれだけのパンが必要かを瞬時に見分けましたが、イエスに向って父なる神を見せて欲しいなどと感覚を重視する傾向が見られます。ナタナエルは黙想の生活を大切にし、イエスとの対話ですぐにイエスがどのような方かを直感的に把握できました。
マイヤーズ・ブリッグス性格指標検査では、「心の構え」に関して判断型と柔軟型という区別をつけます。イエスの兄弟ヤコブは「行いのない信仰は死んでいる」とはっきり語りました。一方、バルナバは、パウロとの第一回目の伝道旅行の際に途中で逃げ出したマルコを最後まで弁護し、福音記者にまで育てました。
これら二つの心の構え、四つの意識機能、また追加の二つの組み合わせから、16のパターンが区分けされます。ただし、各人の中に外向、内向などそれぞれ矛盾する傾向が共存していますから、安易に人にレッテルを貼るためにこれを用いてはなりません。
しかし、これらの違いを理解すると、人と人とがなぜ互いを理解し合えないかを優しく受け止められるようになります。キリスト教会では、これらの異なった発想を持つ人が豊かに組み合わされることで、交わりが広がるのです。
私自身は営業である程度の実績を出してきた自負心から、自分を外向、思考、感覚、判断型の組み合わせかと思ったことがあります。しかしその後、牧師としての働きの失敗を振り返ると、自分は内向、感情、直感、判断型であると見られるようになりました。これは日本的な組織のリーダーとしてはあまり好まれない性格です。
しかし自分そのように見ると、これまでの自分の失敗を、避け難かったものとして、やさしく見られるようになってきました。神は人を創造した際、「人が、ひとりでいるのは良くない」(創世記2:18) と言われましたが、新約時代には信者の中に聖霊を与え、互いに排除する傾向の間に交わりを創造してくださいます。
一人ひとりは不完全でも、交わりを通して完全になるように召されているのです。大切なのは互いの違いを受け入れ、受け入れ合うことです。私たちは交わりの中に神のみわざを認めることができます。
3.「あなたの御思い(意図)は、何と貴いことでしょう」
15節では、「私がひそかに造られ」た様子が「地の深いところで織りあげられたとき」と言いかえられます。神は私たちの思いをはるかに越えた形で、それぞれをユニークな個性を持つ者として造ってくださっているからです。
続く16節の「あなたの目は胎児の私を見られ」とは、神が母の胎のうちで私を組み立て、織りあげられた時、この「私」をご自身の最高傑作として喜んで見ておられる様子を描いたものです。
さらに17節新改訳の「神よ あなたの御思いを知るのは なんと難しいことでしょう」という告白は、「あなたの御思い(意図)は、なんと貴いことでしょう!」(17節) という感動を生み出す表現とも理解できます。聖書協会共同訳2018年版でも同じ趣旨で訳されています。「御思い(意図)」は、2節の「私の思い」の「思い(意図)」と同じことばですが、ここでは私が自分に対して抱く計画ではなく、神が用意してくださったご計画を意味します。
しかも、それは、私がひ弱で、何の価値もなかったと見られていた時から備えられたものです。ここでの「貴い」とは、イザヤ書43章4節の「わたしの目にはあなたは高価で」の「高価」と同じで、神のご計画の貴重さの告白です。私がまだ姿も能力も現していない段階で、神は、私の人生に数え切れないほどの可能性を見ておられました。その御思いの「貴さ」こそが、私たちの人生を豊かにする源泉です。
2001年9月のハンス・ビュルキ先生のもとで受けた研修では、何よりも、自分の生かし方、生かされ方が見えてきました。僕はそれまでの人生の振り返りで、自分の過去の辛かった体験を思い起こし、そこに優しい光を当てるという、自分の修復工事のような霊性の学びをしてきました。そして自分の神経症的な傾向が、教会に集う方々の自主的な奉仕にブレーキをかけるというようなことに目が向かい、自分を修正しなければという熱い思いでセミナーに参加しました。
しかし、先生は敢えて自分の幼児期の楽しかった思い出、気持ちがわくわくしたような体験を思い起こす黙想の時間を与えてくださいました。僕は若い小学生時代の北海道の雪の中での自分の創造的な遊び方を思い起こすことができました。自分にとっては一人で、忍耐強く、何かを作り上げることがとっても楽しかったということが思い起こされました。
そこから発見されたのは、自分が多くの人とのチームワークの中でリーダシップを発揮させるということよりも、自分が聖書から味わった感動をただただ書いたり、また語ったりすることに賜物を与えてくださっているということでした。
それから僕は旧約聖書のストーリーをまとめて話したり、書いたりすること、また詩篇に記された人間の感情に向き合うような働き方へと導いて行かれました。
また、自分の心や身体の硬さに気づいて、それからスポーツクラブに通うようになりました。そこでさらに大発見だったのは、自分は音楽に合わせて踊るのが好きだということでした。
自分の気持ちでわくわくすることをできなくて、どこに来たるべき「新しい天と新しい地」の喜び、「新しいエルサレムの喜び」が生まれるでしょう。
皆さんも、自分の幼児期や幼少期を振り返り、自分にとって楽しかったこと、心がわくわくしたことを思い起こしてみてください。
ナチスドイツの強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルは人生のコペルニクス的転換を提唱しています。それは「私は人生にまだ何を期待できるか」という問いかけを、「人生は私に何を期待しているか」という問いへと転換させることです。
それは、「あなたが使命を捜すのではなく、使命があなたを捜している」と言い換えることもできます。あなたの心が燃える何かの働き、また、「これはどうにかしなければ……」という意欲が生まれてきたとき、そこに神様からの問いかけを見ることができるのではないでしょうか。
神は一人ひとりをかけがえのない存在と見て、その一日一日を通して、ご自身の栄光を現そうとしてしておられます。その神の意図の総計は「砂よりも多く」(18節)、数えきれないほど多様なのです。
「どうせ自分なんか、この程度しか期待されていなし、できもしない……」などと、神が備えてくださった可能性を自分で狭くしてはいないでしょうか。
そして「目覚めのとき」(18節) は、終わりの日の復活ばかりか、日常生活にも適用できます。毎朝の「目覚めのとき」、「私は……あなたとともにいます」と喜びながら、「あなたは今日、私を通して何をしてくださるのですか?」と喜びの期待をもって、神に祈ることができるからです。
日本の同調圧力のなかで起きることが、「生まれたときにはみなオリジナル、しかし、死ぬときにはみなコピー品になっている」と言われることがあります。しかし、あなたの創造主は、あなたの生き方すべてに親しんでおられ、そのままの姿で輝くことができるようにあらかじめ創造してくださいました。
残念ながら、多くの人は劣等感と罪意識を混同していると言われます。しかし、自分はダメな人間であると思う劣等感は、それは謙遜ではなく、あなたに対する神の創造のわざを軽蔑する最大の罪とも言えましょう。
神は御霊によって私たちを再創造してくださいます。私たちは恥じなくて良い自分の性格を恥じてしまい、また自分の能力の不足を「罪」と混同することがあります。
しかし、聖書の語る「罪」とは、神と人、また世界に対する関係の持ち方の問題です。イエスはマタイ22章34–40節で、神の私たちに期待することを、全身全霊で主を愛することと、自分の隣人を自分自身のように愛することとして要約してくださいました。
私たちは、もともと、人の助けなしには生きられない弱い存在に創造されています。しかし、神と人の助けが不可欠と認めるとき、反対に、あなたを通して神がご自身の栄光を表わされ、人に生きがいを与えられることができるのではないでしょうか。
罪の自覚は、あなたが自分の個性を大胆に生かそうとするときに、必然的に生まれるものです。しかも、大胆に生きれば生きるほど、周りの人がそれに対して何か余計なことを言ってくれます。また、あなたが働きを広げた結果として、あなたのせいで傷ついたという人が生まれてきます。ですから、謙遜になろうなどと思わずに、大胆に生きた結果として、自分の罪が示され、謙遜にされるものです。
何よりも、健全な罪意識は、創造のみわざへの感動と感謝から生まれるものです。「私は神の最高傑作として生かされている!」と真に自覚するとき、「私はもっと、神と人とに仕える生き方をしなければならないのに……」と示されるはずです。
そのとき人は、与えられたすべての賜物を積極的に生かしながら、いのちの喜びを感じつつ、神の創造された世界と人に向って愛をもって関わって行くことができるのではないでしょうか。
しかも、大胆に個性を生かそうと思えば思うほど、結果的に自分の限界が示されるものです。そこから必然的に、まわりの人の存在がかけがえのないものと発見できます。それどころか、すべてに先立って、神の助けなしには自分の働きを全うすることができないという健全な感覚が生まれます。
前回ご紹介したJ.S.Bach作曲モテット「Jesu meine Freude(イエスは私の喜び)」を味わう中で、目に見える結果を求めるよりも、すべての働きがイエスへの愛の現れになることの幸いと喜びを教えらました。
私の創造主からの期待に応える生き方をしているという自覚の中で、イエスご自身を「私の喜び」として感謝でき、人生が開かれれてきたように思います。大切なのはイエスとの交わりのうちに生きることです。

