立川チャペル便り「ぶどうぱん」2025年クリスマス号より
この11月に24日に渡ってドイツを中心にヨーロッパの9都市を巡りました。
どの町でもその中心にカトリックの大聖堂が立っています。
代表格はケルンの大聖堂で144mの巨大な双頭の柱の会堂です。ただ内部の荘厳さからすると大司教座があったマインツ(フランクフルトに近い町)の大聖堂かと思います。ウィーンのステファン大聖堂では、36年前と同じようにミサの雰囲気を味わうことができました。
ただ、今回、改めて違和感を覚えたのは、暗い会堂の中に置かれたキリストの十字架の御苦しみの姿です。どの会堂でもイエス様の十字架の苦しみを痛々しく表現しています。その巨大な像が会堂の中心に飾られています。
何となくそこに込められた思いは、「イエス様はあなたの罪をご自身の身におってこれほどに苦しまれたのだ、あなたは自分の生き方を反省する必要がある……」という感じがあるように思いました。または、「キリストがあなたの救いのために、これほどのことをしてくださった、そのあわれみにすがって、生きましょう」というもので、イエスの像が偶像のように置かれています。
それに対し、プロテスタントの諸教会は、そのような生々しいキリストの像を会堂の真ん中に置きはしません。それは、キリストはすでに復活して、天の父なる神の右の座に着座し、私たちのためにとりなしをしていてくださるからです。
カトリック教会でも例外的にスペイン・バルセロナのサクラダ・ファミリアにおけるキリスト像は、苦しみの先に復活が示唆されています。イエス様の御顔は天に向けられていて、足にはこれからの飛躍を待つような姿勢が見られます。
会堂の内部はまさに「天からの光に満ちた世界」で、会堂の中に座る人は、神の創造の光に包まれている感動を味わうことができます。
当会堂の正面のステンドグラスにおいても、十字架は光の世界への入り口として描かれ、そこには「新しい天と新しい地」が示唆されています。
神の創造のみわざの最初は「光の創造」でした。そしてヨハネの福音書では、イエスの来臨は、「すべての人を照らすそのまことの光」として描かれています。
神による世界の創造もイエスのクリスマスの来臨も、「光」がテーマです。そして私たちは神の愛の光に包まれて、神の優しい光に満ちた世界へと招かれています。
あなたがイエスを自分の人生の主と告白し、またこのように毎週、礼拝の場に集っておられるのは、あなたが神の光にとらえられていることの何よりの証拠です。イエスへの信仰を、何か努力目標のように捉える代わりに、父なる神とイエス様があなたのためにしてくださったみわざに目を向けることが信仰の出発点です。あなたの罪はすでにイエスの十字架で贖われました。罪の贖いが真実かを問い直す代わりに、今、あなたがイエス様から問われていることに目を向けるべきではないでしょうか。あなたは神の光に包まれて、この闇の世界に遣わされます。あなただからこそできる働きがあります。
イエスによって罪が赦された者として、もっと自由に神を喜びながら、自分が神の光に包まれていることを自覚しながら、大胆に生きることが問われているように思います。

