先月、約4週間の欧州旅行をしてきましたが、もともとの発想は夫婦で約40年余り前のドイツとそこで知り合った人々、教会を訪問したいということでした。
それがどんどん忙しいスケジュールになってしまいましたが……。
この時代の変化について行けず、さんざん苦労しましたが、そのたびごとにいろんな方々の助けを得て、無事帰国できました。
45年前からの多くの友情に助けられて、充実した旅行になりました。
昔からの友人が、新しい友人を紹介してくれて、さらに多くの恵みを体験できました。
「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(箴言19:22新改訳第三版) というみことばが好きですが、最新版では理解しにくいことばに変わっています。
ふと、どの箇所だったかとネットで調べましたら、昔、自分が書いた原稿が出て来て嬉しくなりました。 の最後の部分です。
昔、ある人がユダヤ教のラビ(教師)に、「こんな悲惨なことが起きる中で、よく、神などを信じられますね」と尋ねとき、ラビは、「あなたはこれほどひどいことが起きる中で、神を信じずに、よく正気を保つことができますね」と答えたとのことです。神のご支配を信じられるからこそ、人から裏切られても、正気を保って、誠実な生き方をしようという勇気が湧いてきます。
僕も約30年近く前に牧師をしながら大変なことを体験した後に、カナダの神学校の短期講習を受けたとき、その時のテーマが下記の詩篇96篇10節の「主 (ヤハウェ) は王である」というみことばでした。それは、「主 (ヤハウェ) は統べ治めておられる」とも訳すことができます。
それはどんな悲惨な中にも、主のご支配を発見し、そこから希望を見出すことができるという意味です。
人生にはいろんなことが起きますが、もっとも大きな宝は、そこで築かれた数々の友情かなと思います。先の「変わらない愛」とは「誠実さ」とも訳すことができます。友情とは、友人の誠実さに対する信頼です。
40年間会っていなかった人とも、昨日のように思い出を語り合い、その間の苦労を分かち合い、慰め合うことができるのは本当に大きな恵みでした。
詩篇96篇1–13節「主 (ヤハウェ) は王である」
これとほとんど同じ詩がⅠ歴代誌16章に登場します。ダビデがエルサレムに都を定めてすぐに行なったことは、「十のことば」が収められた契約の箱を運び入れることでした。そのときに聖歌隊によってこれが歌われたというのです。
このときダビデは、王の権威を捨て、喜び踊りながら、自分を真の王を迎える「しもべ」の立場に置きました。
ダビデは最初に、「主 (ヤハウェ) に歌え」と三度繰り返します (1、2節)。その際、恐れ多い御名「ヤハウェ」を大胆に口にします。
「新しい歌」とは、「新鮮さ」を意味します。私たちはどのような状況下でも、主 (ヤハウェ) の恵みとあわれみを思い起こし、日々新鮮な感動とともに「主に歌う」ことができます。
しかも彼は、「全地のもの」が、「主の御名をたたえる」(2節) という世界を夢見ながら、「主 (ヤハウェ) に歌う」ことを訴えています。
「御救いを……告げよ」(2節) とは、出エジプトからダビデ王国の繁栄までのすべての主のみわざを後の世代に、「歌」をもって伝えることでした。
現代の私たちにとっては、そこに二千年前のキリストの十字架と復活による「救い」が中心として加わります。しかもそれをもたらす「主の栄光」を「国々の間で語り告げよ」(3節) と勧められます。
教会で歌われている様々な賛美の歌は、「主 (ヤハウェ) に」歌われているものであるとともに、主の救いのみわざを人の心にメロディーをもって伝えているものです。宣教と賛美は切り離せません。私たちは主のことばを理性だけで理解しようとしがちですが、主のみわざを、歌をもって伝えるとき、それは人の心の奥底にまで届きます。
7、8節では、「主 (ヤハウェ) に帰せよ」ということばが三回繰り返されます。それは人が、いつもすべての幸せの原因を、人間の手に「帰して」しまうからです。それでここでは、「栄光と力」、「御名の栄光」と重ねながら、「主に栄光を帰す」ことが強調されています。
「栄光」の本来の意味は「重さ」ですが、人の愚かさは人の栄光を神の栄光よりも優先してしまうことにあります。現代人は、コンクリートの建物の中と間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。
ダビデは、人々が貢物を携え、王である自分の権威の前にひざまずくことを求める代わりに、「ささげものを携えて、主の大庭に入れ……主 (ヤハウェ) にひれ伏せ」(8、9節) と勧めました。そして彼は、「主 (ヤハウェ) 」こそが全世界の「王」であると、聖歌隊がそろって宣言するようにと命じます (10節)。
この告白こそ、この詩の核心です。そして、「主 (ヤハウェ) は王である」という告白こそが、ダビデ王国が祝福された鍵です。
「主は公正をもって諸国の民をさばかれる」(10節) とは、世の不条理が正されることを意味します。それは、救い主の到来によってすでに始まっています。
それは神の平和(シャローム)が全地に満ちるときです。11、12節では、「喜び」「小躍りし」「鳴りとどろけ」「喜び踊れ」「喜び歌う」という五つもの喜びのことばが繰り返されています。この世界には、様々な不条理、悲しみが満ちていますが、「主 (ヤハウェ) は王である」と告白する者にとっては、どのような悲しみも、歓喜の歌を迎えるための間奏曲に過ぎません。
【祈り】主よ、私たちは、あなたの愛のご支配を見失い、恐怖に駆り立てられるように生きることがあります。この世の不条理は、罪人に対する神の忍耐の現れであることを覚えながら、この世界が喜びに満ちた平和の向かっていることを覚えさせてください。

