11月にドイツを中心にヨーロッパの9都市を巡りましたが、どこでも真ん中にカトリックの大聖堂が立っています。
今回、改めて違和感を覚えたのは、暗い会堂の中に置かれたキリストの十字架の御苦しみの姿です。どの会堂でもイエス様の十字架の苦しみを痛々しく表現しています。その巨大な像が会堂の中心に飾られています。
ただ、個人的にはどうしても、何かその十字架像が、この世での私たちの生きる気力をくじくような感じがしてしまいました。人は、いつも何らかの目標を持って頑張っていますが、その多くは社会の役にたつものでもあるからです。
カトリック教会でも例外的にスペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリアにおけるキリスト像は、苦しみの先に復活が示唆されています。イエス様の御顔は天に向けられていて、足にはこれからの飛躍を待つような姿勢が見られます。

会堂の内部はまさに「天からの光に満ちた世界」で、会堂の中に座る人は、神の創造の光に包まれている感動を味わうことができます。
旅行の間、11世紀のカトリックの神学者アンセルムスの書いた「神は何故に人間となりたまいしか」という文庫本を持ち歩いていました。そこに、イエス・キリストのみわざが「死と滅びの道から生命と永遠なる幸福の道に人間を導くために……人間がいかに生くべきかを、言葉をもって教えながら、己自身をその範例として示し給われた」(第二巻11章)と記されていました。
つまり、イエスは私たちの身代わりに苦しまれたということ以上に、私たちに生き方を教えると同時に、ご自身の聖霊によって生きる気力をも与えてくださる方であるという趣旨のことが書いてあるのです。もちろんイエスの十字架がサタンに対する勝利であり、私たちの罪を贖うためのものであったということは大前提として記されています。
私たちは罪の贖いの意味を問い直す以上に、今ここでイエス様から問われていることに目を向けるべきではないでしょうか。私たちは神の光に包まれて、この闇の世界に遣わされます。あなただからこそできる働きがあります。
イエスによって罪が赦された者として、もっと自由に神を喜びながら、大胆に生きることが問われているように思います。
詩篇97篇1–12節「民は主の栄光を見る」
詩篇93篇~99篇までの共通のテーマは、「主 (ヤハウェ) は王である」または、「主 (ヤハウェ) は全世界を治めておられる」という霊的な事実です。
1節では「主 (ヤハウェ) は治めておられる」と宣言されながら、その事実を、被造物である「地」と世界中に広がる「多くの島々」に向かって「小躍りせよ」「喜べ」と訴えられています。
2–5節の表現は出エジプト記19章に描かれた、主がシナイ山に下って来られた情景を思い起こさせるものです。そこでは、主はモーセに「わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む」と言われます (19:9)。
主がシナイ山に降りてくる朝の情景が、「雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった」と描かれます (19:16)。
そして、主が降りて来られる情景が「主 (ヤハウェ) が火の中にあって、山の上に降りてこられた……煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」と描かれます (19:18)。
多くの人々は、「優しいお父様」のような神を求めますが、聖書の神は、まず人々を震え上がらせる栄光に満ちておられます。しかし、それは、「この方の前では、全世界のあらゆる権力も、貧弱に見えるほどで、この方にとっては、どんな課題も難しすぎることはない」という信頼感を生み出す全能の主の偉大さとも言えます。もうこの世の権力者を恐れる必要はないのです。
2節では「義とさばきが御座の基である」と記されますが、6、7節では「天は主の義を告げ……偽りの神々を誇る者は恥を見る」と描かれ、また、8節では「シオンは聞いて喜び ユダの娘たちも 小躍りしました。主 (ヤハウェ) よ あなたのさばきのゆえに」と描かれます。
つまり、「主の義」はこの世の人々を恥じ入らせ、主の「さばき」は神の民にとっての喜びの原因となっているのです。
私たちはときに「主の義とさばき」をもとに、「父なる神は、どんな小さな罪をも見逃さずに罰を与える厳しい方で、イエスは私たちの罪の刑罰を身代わりに引き受けてくださった」と解釈します。
それによって、イエスの救いの有難さが身に迫って来るということもあるのかもしれませんが、それでは、父なる神と御子イエスを異なった性質をもつ神にしてしまう矛盾に陥りかねません。
もっと単純に「私の主は偉大な力に満ちた方なので、もうこの世の暴力の支配に屈する必要はない」「私の主はご自身の義(正義)を最終的に全うしてくださる方なので、この世の不条理に怒り狂って、力に力で対抗する必要はない」と考えれば良いのです。
10節は、「主 (ヤハウェ) を愛する者たち」という呼びかけから始まりますが、それは「主にある敬虔な者(主に誠実な者)」、また11、12節では「正しい者」「心の直ぐな人」と言い換えられながら、主がそのような者の「たましいを守り」、その者のために「光を蒔き」「喜び」で満たしてくださると描かれます。
私たちの責任は、この世で何らかの結果を出そうと焦ることなく、日々の生活の中で、主を愛し、主に誠実を尽くすことなのです。
【祈り】主よ、あなたがご自身の栄光を世界に現わしてくださる方であることを感謝します。私たちはしばしば、この世で無力感を味わいますが、あなたがご自身の義とさばきを現わしてくださることに信頼して、今、ここで主に誠実を尽くさせてください。

