先週になってようやくボンヘッファーの映画を見ることができました。とっても感動的な内容でした。
ただ、ドイツ愛好家としては、一言、書かざるを得ません。
内容があまりにもアメリカ的な視点から、白黒をつけた単純化に流れていることが残念でした。ボンヘッファーは確かに「ヒトラー暗殺計画」に参与していますが、それは映画で描かれた自爆テロのようなものではなく、政権を担うことができる政治指導者、教会指導者、軍部指導者を巻き込んだ新政府樹立計画のようなものでした。自爆テロのような計画だったらボンヘッファーは決して参与はしません。テロは別のテロの引き金にしかならないからです。
また、ヒトラー政権を批判しなかった多くの教会も、ヒトラー礼賛のようなことまではしていません。彼らは政治と教会の住みわけを強調したのであって、ヒトラーを賛美して聖書の教えを曲げることまではしていません。
ボンヘッファー自身、悩みながらこの暗殺計画に参与しており、彼は自分の行動が神の前で正しいかどうかを問うことを止めると言っています。彼は暴走列車を止めざるを得ないという気持ちに駆り立てられて行動しているだけなのです。
しかも、彼は米国教会には批判的な面がありました。分裂に分裂を繰り返しているように見えていたからです。彼は教会の問題を教会の中で、逃げずに向き合うということを大切にしていました。だからこそ、彼は亡命を拒否したのです。
それはそれとして、とっても良い映画であることは間違いないとは思います。
ボンヘッファーは、死の一年前の待降節に、獄中にいながら次のような手紙を友人のベートケに書いています。
「この頃になって僕はあの「汝の飼い葉桶の傍らに立ち」という歌をやっと初めて自分の者として理解できたと思います。今までこの歌をそれほど深く考えたことはなかったのですが、この歌を理解し自分のものとするには長い間一人で居て、黙想しつつ読まなければならないようです。言葉一つ一つに特別な含みがあり、美しい……
家族に宛てた手紙では次のように記されています
「キリスト教徒の立場からすれば、刑務所で……はるかに意味深い、より本質的なクリスマスが祝われていると言えます。悲惨、苦しみ、貧困、孤独、失望、そして罪が、神の目には人間の裁きとはまったく別の意味を持つこと、また、人が目を背けようとするまさにその場所に目を向けたもうたことを、そしてキリストが、宿を断れたがために馬小屋にお生まれになったこと、これらのことを囚人たちは他の人より深く理解するのです」
以下がボンヘッファーが深く感動した歌詞の私訳です。全歌詞の三分の一ぐらいしか言語化はできませんが、基本的な意味は理解していただけると思います
「飼い葉おけ(まぶね)のかたわらに」
1653年 Paul Gerhardt作 2007年高橋訳(曲:賛美歌107)
- まぶねのかたえに われは来たり いのちの主イェスよ きみを想う
受け入れたまえや わがこころすべて きみが賜物なり - この世にわれまだ 生まれぬ先 きみはわれ愛し 人となりぬ
いやしき姿で 罪人きよむる くしきみこころなり - 暗闇包めど 望み失せじ 光 創りし主 われに住めば
いのちの喜び 造り出す光 うちに満ちあふれぬ - うるわしき姿 仰ぎたくも この目には見えぬ きみが栄え
ちいさきこころに 見させたまえや はかり知れぬ恵み - 深き悲しみに 沈みしとき 慰めに満てる御声聞こゆ
「われは汝が友 汝が罪すべてを われはあがなえり」と - 御救いの星よ いといたわし 干し草とわらに 追いやられぬ
黄金(こがね)のゆりかご 絹の産着こそ きみにふさわしきを - 干し草を捨てよ わら取り去れ きみがため臥所(ふしど)われは作らん
すみれ敷き詰め きみが上には かおりよき花びら - おのが喜びを 望みまさず われらが幸い きみは求む
われらに代わりて きみは苦しみ 恥を忍びましぬ - 主よ わが願いを 聞きたまえや 貧しきこの身に 宿りたまい
きみがまぶねとし 生かしたまえや わが主
詩篇98篇1–9節「神の救いを見ている」
この詩篇では、3節で「地の果てのすべての者が 私たちの神の救いを見ている」とあるように、今、すでに成就している「救い」が強調されています。
クリスマスの有名な讃美歌では、「諸人こぞりて 迎えまつれ 久しく待ちにし 主は来ませリ……主は、主は来ませリ」と歌われます。
一方、英語圏では同じメロディーにより、この詩篇をもとにしたアイザック・ウォッツ作の歌詞で、「世界への喜び!主は来られた!地にその王を迎えさせよ すべての心に王のための部屋を用意させよ そして天も自然も歌え……天も、天も自然も歌え」と歌われます。
この世界を父なる神とともに創造された神の御子が、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担」うために、人となってくださり、私たちがこの世で直面するすべての「悲しみ」と「病」はこの方が体験してくださいました (イザヤ53:3、4)。
そして、この方は、ご自身の十字架で「死の力を持つ者」を「滅ぼして」くださいました (ヘブル2:14)。ですから、キリストのうちに生きる者にとっては、最終的な「勝利」は保証されています。
4節では「全地よ 主 (ヤハウェ) に喜び叫べ」と歌われ、それが8節までの全被造物に対する賛美への呼びかけになっています。
そして、9節で繰り返される「主のさばき」こそが、全地の被造物にとっての「喜び」の根拠とされています。しばしば、主の「救い」が、死んでも天国に行けることとして描かれます。それは決して誤ってはいませんが、聖書が描く救いは、より現実的なことです。
神の「さばき」とは、最終的にこの世界をご自身の平和(シャローム)で満たすことを意味します。全被造物は、神のさばきを喜び歌います。
しかし、「神のかたち」に創造された人間は、愚かにも自分を神として、神のさばきに反抗しようとします。だからこそ、アイザック・ウォッツが歌ったように「すべての心に、王(である主)のために、部屋を用意して」、主の救いを心に迎え入れさせる必要があるのです。私たちが自分の心の中に、「王である主」(6節) を迎え入れることから「救い」が始まるのです。
【祈り】主よ、「神の救い」は、私たちの目に見える現実的なものであることを感謝します。王である主のあなたが、いつも私たちの心の中をご支配ください。

