3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ルカ14:7–11:互いに相手を上座に座るべき人と見做しなさい)。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
6 キリストは、神の御姿であられるのに(ので)、 神としてのあり方を捨てられないとは考えず(神と等しくあることに固執しようと思うことなく)、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、 天にあるもの、地にあるもの、 地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が 『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです(イザヤ45:23、24では「すべての舌がイスラエルの神について、『ただ主 (ヤハウェ) にだけ正義と力がある』と言う」と記されるが、ここでは、イエスにその「救い主」の立場が与えられることで、神に栄光を帰することになると記される。私たちはイエスの「正義と力」に信頼して歩むように召されている)
12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい(私がいない今はなおさらそうであってください。そして恐れおののいて自分の救いを達成しなさい)。
13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
私たちは小さいときから、より賢く、より強く、より速く物事を成し遂げられる競争へと駆り立てられています。学校時代は偏差値を高くすることに、社会人になると出世を目指すのが人情です。 しかし、クリスマス物語の核心とは、世界の創造主が貧しい「飼い葉桶」の中に眠る赤ちゃんとなったことを覚えることにあります。その理由が「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」(ルカ2:7) とのみ記されています。神はこの社会に居場所がない人の仲間となることで、世界を内側から造り変えようとされたのです。
それ以前に、父なる神と共に世界をお造りになられた永遠の神の御子が、処女のマリアの胎に宿り、親の助けなしには何もできない赤ちゃんとして生まれ、この世の不条理に振り回される立場になったこと自体が何とも不思議です。それは、いつも上ばかりを目指す私たちに発想を根本から正そうとする神のみこころと言えましょう。
ピリピ人への手紙2章6–11節は、「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の讃美歌であったとも言われます。それはキリストが徹底的にへりくだる姿が描かれています。6節は「キリストは、神の御姿」そのものであられたからこそ、敢えて自分を低くすることができたと解釈できます。それはセルフ・イメージが低い人に限って、自分を強く、賢く見せたがるのと正反対です。
人間イエスは、神に愛されているという確信があったからこそ、人々が忌み嫌う十字架の死という辱めにも耐えることができたのです。そのような「従順」な姿勢に対し、神はこの方を死者の中からよみがえらせ、ご自身と等しく崇められる立場に引き上げてくださいました。
そして私たちがクリスチャンとして生きるとは、キリストの生き方に倣うことに他なりません。ただ、そこで多くの人は、「自分を低くする」ということへの誤解があるように思えます。ピリピ2章3節の「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」とは、決して自分の能力を低く見るという意味ではありません。
ルカによる福音書14章7–11節では、結婚の披露宴などで、自分から上座に座りたがる人をたしなめるような話が記されていますが、ここで「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」とは、相手を上座に座るべき人と思いなさいという意味に他なりません。あなたに与えられた能力は、自慢するためにではなく、人に仕えるために与えられています。
たとえば日本の学校では、英語の成績が偏差値に大きな影響を与えますが、それに何の意味があるのでしょう。僕は英語の成績が悪すぎて大学受験に苦労しました。大学ではドイツ語に苦労しました。しかし、英語やドイツ語を使って外国人とコミュニケーションを取る喜びが分かったとき、語学ができない劣等感から自由になり、人のお役に立つことができました。
人それぞれに神からの固有の能力や賜物が与えられています。それはすべて、人にお役に立つために、人に仕えるために与えられています。互いに仕え合うということを第一にするときに、あなたの能力は生かされます。
それと同時にキリストの生き方に倣うとは、主が「飼い葉桶」の中を最初の住まいとされたように、問題のただ中に身を投じることです。それは貧民街に敢えて住むということかもしれません。しかし同時に、人と人との争いのただ中に身を置くとか、人が引き受けたがらない重い責任を担うことかもしれません。それは、自分にとって心地よい空間から出て行くことを意味します。
キリストは天で御使いたちから賛美される立場から、罪人たちから嘲られ、罵られる立場にまで降りて来られました。
なお、キリスト賛歌に続いて、「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と記されていることは何とも不思議です。これは、自分の救いを獲得するように精進努力することの勧めのように誤解されるかもしれません。しかし聖書は、私たちに与えられる「救い」は、神からの一方的な恵み、賜物であることを繰り返し強調しています。
これは文脈からするならば、自分の立場を上げることに目を向けるこの世の生き方との対比で、キリストの生き方に倣うことに他なりません。ここでは厳密には、「あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさらそうであってください。そして恐れおののいて自分の救いを達成しなさい」と記されています。既に彼らは従順な生き方をしていたことを前提にそれを続けるようにという勧めと同時に、この世の常識に流されずに、キリストの生き方に倣い続けることを勧めているだけです。
しかもこの「救い」とは、十字架にかけられたキリストを神が三日目に復活させたのと同じように、神が私たちに与えられる「救い」を待ち続けることの勧めです。敢えて言うなら、この文脈での努力目標とは、自分をよりよく見せたいという強がりを捨てること、また、自分にとって心地よい空間から飛び出て、問題のただ中に自分の身を投じることに他なりません。
ただ、キリストの生き方に倣うという具体的な生き方は、人それぞれに求められていることが全く違うので、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」と最後に記されます。
キリストに倣うという生き方は、人それぞれ千差万別です。私自身はビジネスの世界から牧師に世界に入ってきましたが、いつも思っているのは、ビジネスの世界でキリストに倣って、人々に仕えるという生き方をどのようにできるかをともに考え、励ますということです。自分の失敗談や学んだことをその意味で生かしたいといつも願っています。

