間もなく2025年も終わろうとしていますが、日本では年末になるとベートーベンの交響曲第九「合唱付き」が演奏されます。
今回のドイツ訪問で、45年ぶりにボンのベートーベンハウスを訪ねてきました。
45年前は、ラッパのような補聴器のことしかほとんど覚えていませんでしたが、今回はベートーベンの大切なことばに出会うことができました。
彼が自分の耳が聞こえないことを自覚しだしたのは30歳を超えたばかりのことだったとのことです。彼はそのとき約二年間も家にひきこもっていました。それは自分の耳が聞こえないということを、人々に知られたくなかったからです。
しかし、その直後彼は友人宛の手紙で次のように宣言します。
私は運命の喉をつかむ、決して打ち負かされはしない
それは、その運命を受け入れるばかりか、そこから新しい世界を広げるという宣言です。その後に、彼は次のように書いています。
私に関する限り、愛しい天の御国よ。私の王国は空気の中にあるのだ。
その中を風が吹けば音(調べ)が舞い上がるように、私のたましいの中では音(調べ)が舞い上がるのだ
歓喜の歌の最初は、「友よ、このような調べではない」ということばから始まります。それは、彼が自分のたましいの奥底から、音が舞い上がっている来るのを感じていたからでしょう。
彼は、音を聴けなくなったことで、心の奥底でこの世界では聞くことができない音を聴くことができるようになったのです。
音が聞こえないからこそ、多くの人々の感覚を超えた音色を聞くことができ、多くの音楽家の常識を超えた合唱付きの交響曲を書くことができました。
私たちは何かを失ったように思える時、そこに新しい世界が広がって来るということを、創造主にあって体験できるのではないでしょうか。
この詩の題名は、「喜びに寄せての賛歌」が直訳です。この歌詞はもともとフリードリッヒ・シラーというドイツの詩人が、フランス革命前の社会の変化に感動して作ったものです。その革命が起きた1789年はベートーベン19歳の時で、その詩に合わせて彼は希望に溢れていました。
しかし彼がこの詩を交響曲にした1824年(54歳)は、まさに絶望のときでした。フランス革命がヨーロッパ全土を巻き込む戦争で終わり、古い体制が復活しました。そして彼の耳もほぼ完全に聞こえなくなっていました。
彼はそのような中で、シラーの詩をまったく異なった視点から解釈したのだと思われます。それが、彼が自分で付け加えた最初の歌詞、「友らよ (フロインデ)、このような調べではない、もっと心地よいものを歌い始めよう、もっと喜びに溢れながら」に現されているのかと思います。それは天から来る希望の歌です。(以下は私訳です)
喜び (フロイデ) よ、麗しき神々の閃(ひらめ)き、楽園の乙女よ、
我らは火に酔って、天のあなたの聖所に踏み行こう。
あなたの魔法こそ、時流が引き裂いたものを結び合わせる。
柔らかな御翼のもと、すべての人々は兄弟とされる。
ひとりの友ら (フロインデ) の友となることを成し遂げ、
また心優しい妻を得られた者よ、自身の歓喜に声を合わせよ。
そうだただひとつの魂とでも、この地球で心を合わせられることを喜べ。
それができない者は泣いて立ち去る。
喜び (フロイデ) を、すべての存在が、自然の乳房から飲む。
すべての善人も悪人も、自然のバラの道をたどり行く。
それは口づけと葡萄を、死で試された友 (フロインド) をくれた。
快楽は虫にも与えられるが、ケルブは神の前に立つ。
喜び勇んで神の諸々の太陽は天の計画を駆け巡る。
兄弟よ、その道を走れ、喜ばしく勇士が勝利に向かうように。
抱き合おう、幾百万の者よ。この口づけを、全世界が受けよ。
兄弟よ、星空の上に愛しい父がおられるのだから。
ひれ伏すか、幾百万の者よ、創造主を感じるか、世界よ。
星空の上に神を求めよ、神は王座に着いておられる。
「喜び」こそが、この世で引き裂かれた者たちを一つにする力を持っています。しかもその「喜び」とは、たった一人の人と友となり、心を合わせられるということから生まれます。私たちに求められていることは置かれた場でただ最善を尽くし続けることです。
そしてこの全宇宙を「王」として治める神は、「新しい天と新しい地」を最終的に創造され、そこにおいて私たちを一つにしてくださいます。
神はこの世界を平和の完成へと導いておられます。それを先取りして、私たちは今ここで、どのような暗闇のでも喜ぶことができます。
そしてさらに、その「喜び」こそが、この世界を導く魔法の力となります。そのような「喜び」を通して、神の支配が広がることを覚えましょう。
のサイトの6分30秒のところから最初の「友よ、このような調べではない」の歌詞からの歌をお聞きいただけます。
詩篇100篇「主の大庭での感謝」
詩篇93篇以降では主 (ヤハウェ) の王として支配の現実が歌われていましたが、この100篇はそれを締めくくるような、主の民への呼びかけの歌です。標題には「感謝の賛歌」と記されますが、これは「感謝のために交わりのいけにえ」また「ささげ物」との関係を示すと思われます (レビ7:11–15)。
イスラエルの民は自分たちの収穫物を、主の幕屋または神殿の「大庭」に携えてきて、家族や奴隷とともに「主 (ヤハウェ) の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」(申命記12:8) と命じられていました。
彼らはこの祭りを自分たちの住んでいる町ではなく、たとえ遠隔地にあっても、エルサレムに神殿ができてからは、主の門を通った主の大庭に来ることが命じられていました。それは、私たちが主を礼拝するためにともに集まることに結びつきます。
しかも、そこでの感謝の礼拝と交わりは、「全地」とあるように、全世界に対して、主に喜び叫び、主に仕えることへと招くための行為でもありました。
私たちは主によって創造された「主の民」であり、主に養われている「主の牧場の羊です」。私たちが働いて収入を得たとしても、それは私たちが自分の力で獲得したものではなく、すべては主の恵みです。
私たちの心も体も能力も、すべて主の賜物であり、私たちは同じように主によって創造された方々との交わりの中で働きを進めているに過ぎません。この世界のすべての環境が、主からの恵みの賜物です。私たちはそのすべてを主に感謝するのです。
その際、主の「いつくしみ(善)」、「恵み(ヘセド:変わらない契約の愛)、「真実(信頼できること)」というご性質を思い起こし、感謝し、主の御名をほめたたえるのです。
これは多くの教会の礼拝で最も愛用されている詩篇の一つです。原文の語順では次のような美しい三行詩が四つ組み合わされています。これは詩ですから、その意味と同時にことばの繰り返しやリズムを朗読しつつ、それを心の底に落として味わい、そのことばが自分自身を動かすことを期待すべきでしょう。以下のように訳すことができます
喜び叫べ 主 (ヤハウェ) を 全地よ。
仕えよ 主 (ヤハウェ) に 喜びをもって。
来たれ 御前に 喜び歌いながら。
知れ 主 (ヤハウェ) こそ 神であられることを。
この方が私たちを造られた。私たちは主のもの
私たちは主の民、主の牧場の羊である。
来たれ 主の門に 感謝をしながら、
主の大庭へと 賛美しながら。
主に感謝し 御名をほめたたえよ。
それは 主 (ヤハウェ) が いつくしみ深く
主の恵み (ヘセド) は とこしえで
主の真実は 代々に至るから。
【祈り】主よ、私たちが毎週、「主の大庭」である礼拝の場に集うことができることを感謝します。
私たちは主の牧場の羊として、主からの恵みを、主の民とともに喜び祝います。主への賛美の輪が、この礼拝の場から全世界に広がり続けますように。

