多くの人が言い知れない倦怠感、空虚感や孤独感を味わっています。それは「自分の都合」を最優先できる世の中になった結果かもしれません。真に畏敬されるべき方を知ることなしに、命を賭けるに価する喜びも、生きる意味も目的も見出すことはできるのでしょうか。
多くの方が、近年の礼拝があまりも「人間的な営み」になって、本来、罪ある人間には近づきがたい聖なる神を礼拝するという健全な意味での「恐れ」がなくなってはいないかと警告します。
しかし一方で、近年の礼拝改革を導いてきた方々は、イエス様が当時の社会の底辺の人に寄り添ってくださったという面に注目します。そして、理性ばかりではなく、感性全体で神を礼拝できるための、人の心の動きに優しく寄り添った礼拝の環境や霊的な流れを重視します。
一見、この二つは対立するように思えますが、両方の要素が大切ではないでしょうか。
1.愛の共同体を通してご自身を現そうとされた神
イスラエルの民は「十のことば」を主から直接聞くとともに、シナイ山の様子を見て、たじろぎ、遠く離れて立ちます (20:18)。そしてモーセが山に登って行くことが「神がおられる黒雲に近づいて行った」(20:21) と描かれます。
後に預言者イザヤは、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神」(イザヤ45:15) と告白しましたが、私たちが「神に近づく」とは、「黒雲」また「ご自分を隠す神」に近づくことでもあるのです。
そして主 (ヤハウェ) はモーセを通して、「あなたがた自身、わたしが天からあなたがたに語ったのを見た」(20:22) と言われました。黒雲の中におられ、ご自分を隠す創造主は、ご自身のみことばを通して私たちに現れてくださいます。
ですから、「想像の翼を広げて神を思い巡らす」ことは危険です。自分の知性や感覚で神を理解できないことをわきまえて、神からの啓示に心を開くことが信仰の始まりです。
そして「十のことば」に続く第一の主の教えは、「わたしと並べて銀の神々を造ってはならない。また自分のために金の神々も造ってはならない」(20:23) というものでした。これこそ神が最も忌み嫌われる「罪」です。偶像を造ることは、ご自分を隠される神を、自分たちの勝手なイメージで表わそうとする試みです。
それに対しイスラエルこそ、その神を目に見えるように表す「祭司の王国、聖なる国民」(19:6) でした。「ご自身を隠す神」がイスラエルを通してご自身を現そうとしておられ、彼らが律法を守り、愛に満ちた共同体となることで、世界は神を知ることができるはずだったのです。それは私たちの場合も同じです。
「あなたが彼らの前に立てる定めは次ぎのとおりである」(21:1) 以降は、イスラエルの民が約束の地で、神の民として整えられるための一時的な規定とも思えますが、その基本原則は、三千数百年後の私たちにとっても、極めて示唆に富んだものです。
たとえば、21章12–14節では殺人罪に対する死刑の規定が記されますが、そこでは殺意のない殺人者には、「逃れることができる場所」が指定されているほど、加害者の人権への配慮さえ記されていました。
21章22–25節では、有名な「目には目。歯には歯」が記されていますが、これは復讐を正当化する教えではなく、裁判での賠償規定です。なお文脈からすれば、「人が人と争っていて、身ごもった女に突き当たり、早産させ……重大な傷害が」がない場合の「罰金」の「裁定」の仕方を述べた後、それと反対に「重大な傷害があれば、いのちにはいのちをもって償わなければならない」と記され、「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷」という完全数七つの基準が記されます。
これは文字通りに施行するというよりは、加害者に被害者と同じ痛みを体験させることによって、「神のかたち」に創造された者の尊厳を守ろうという神の知恵です。
しかも、身分やその人の社会的影響力などは関係なく同じ罰が与えられるのですから、権力者の横暴に歯止めがかかります。これは本来、人と人との争いを傷害事件に発展させないための歯止めの教えでした。
イエスは「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」とこれを引用しながら、「しかし……悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい……一ミリオン行くように強いるような者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:38–41) と言われました。これは真逆の勧めのようで、実際は、原点の精神に立ち返らせる解釈でした。
そのことの現れが21章27節での、「自分の……奴隷の歯一本を打ち、折ったなら、その歯の償いとして、その奴隷を自由の身にしなければならない」(21:27) という、奴隷制が当然だった時代に奴隷の人格権を保証するような教えです。ここには、奴隷制を実質的に対等の雇用関係に変える力があります。
23章4、5節は、人間関係に悩まざるを得ない者たちにとっての嬉しいほどに現実的な教えです。「あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない」と記されます。
以前の訳では「それを起こしてやりたくなくても」と、「あなたの敵」の財産が失われそうなのを見て「いい気味だ」と思う人情を受け止め、その正直な気持ちを横に置いて、助けるように勧める表現となっていました。愛は感情以前に、隣人の苦しみを「見過ごさない」という行動です。それによって私たちを嫌っている人の隣人となるのです。
23章10–12節では、「七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない」と命じられ、また「七日目にはそれ(仕事)をやめなければならない」と命じられます。
それは、「民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べ……牛やろばが休み……女奴隷の子や寄留者が息をつくため」と記されます。日本では土地も人材も無駄なく利用することが美徳とされ、すべての面で余裕のない社会になっています。
それらは現在、社会的弱者を保護し、落ちぶれた人に再出発の可能性を与えるための教えとしても適用でます。ドイツなどでは、労働時間を短くすることが最大の失業対策になるといつも語られています。
23章24節において「あなたは彼らの神々を拝んではならない……彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない」と命じられます。
これはイスラム教過激派が歴史的な宗教遺産を破壊する口実に用いられますが、時代背景を知る必要があります。そこには、神がイスラエルを用いてカナンの人々とその悪習を絶滅しようと決めておられたということがあります。
現代の私たちには、他の神々を拝む人の風習や偶像を打ち壊すようには命じられてはいません。しかし現在も、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:1、2) と命じられている。この世の偶像礼拝者の風習や価値観が、教会の中に入り込むことがないように、常に目を見張る必要はあります。
2.長老七十人がモーセともにシナイ山に上って行き、「イスラエルの神を見た」
24章3節では、「モーセは来て、主 (ヤハウェ) のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた」と記されます。それはモーセが一度山を降りて、20章22節以降のことばを語ったということです。
このとき「民はみな声を一つにして」、「主 (ヤハウェ) の言われたことはすべて行ないます」(24:3) と模範的に答えました。
それが忘れられないように、「モーセは主 (ヤハウェ) のすべてのことばを書き記した」(24:4) その上で「雄牛」のいけにえを献げ、その「血の半分」を「鉢に入れ」、残りを「祭壇に振りかけ」ます (24:6)。これは神の側がこの契約にサインをしたという意味です。
そしてモーセはこの今書き記したばかりの契約の書を読み上げ、彼らの応答を聞いて、先の半分の血を取って「民に振りかけ」、「見よ。これは……主 (ヤハウェ) があなたがたと結ばれる契約の血である」(24:8) と述べました。
これは民の側から自分の命をかけて契約を守るという血判状のような重い意味があります。これによって、彼らが「祭司の王国、聖なる国民」(19:6) とされるのです。
イエスは最後の晩餐で「みな、この杯から飲みなさい。これは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタイ26:27、28) と言われます。
イスラエルは契約を守ることに失敗をして国を失いました。それで神の御子が、神と人との契約の仲介者となり、不信仰で罪人のままの私たちを、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(Ⅰペテロ2:9) としてくださったのです。
その後、長老七十人がモーセともにシナイ山に上って行き、何と「イスラエルの神を見た」と記されます。その様子が「御足の下にはサファイヤの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった」(24:10) と描かれます。つまり、彼らが見たのは、主ではなく、主の足台に過ぎません。
サファイヤは濃い青色の宝石ですが、ここは「サファイヤを敷きつめた様子が、天そのもののように透き通っていた」とも訳せます。つまり、彼らは神を見たのですが、それは透き通った空のようだったのです。
その上で、「神はイスラエルの子らのおもだったものたちに、手を下されなかったので」、彼らは生きたまま「神ご自身を見て、食べたり飲んだりした」(24:11) と描かれます。
これは契約の成立を祝う祝宴です。これは、神が、地上にエデンの園の交わりを復興したときの姿をあらかじめ見せてくださったものと言えましょう。そして、私たちの聖餐式も、御国で顔と顔とを合わせて神を仰ぎ見て飲み食いする祝宴のリハーサルです。
十のことばの直後の20章21節では神の臨在が「黒雲」で、また70人の長老との契約では「透き通った大空」で描かれました。
一見、対照的なようでありながら共通するのは、主がどのようなお方であるかは、人が思い浮かべることができず、神からの啓示がなければ何もわからないということです。
一方、神はイスラエルに神の民としての教えを与えることによって「祭司の王国、聖なる国民」としようとされました。つまり、神はイスラエルを通してご自身を世界に現そうとされたのです。
そしてそこに住む一人ひとりは、かけがえのない「神のかたち」として尊ばれるべきでした。三千年前の文化が分からないので、私たちは細々とした規定に現された神のあわれみが見えなくなりがちですが、この原点を忘れてはなりません。
3.神が民の真ん中に住むために
神は、この後モーセに、「山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らに教えるために、わたしが書き記したおしえと命令である」(24:12) と言われました。
そして、「主 (ヤハウェ) の栄光はシナイ山の上にとどまり……山の頂を焼き尽くす火のようであった」(24:16、17) と描かれる中で、「モーセは雲の中に入って行き……四十日四十夜、山にいた」(24:18) と記されます。そして31章の終わりでは、主ご自身が「神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった」(31:18) と描かれます。
そして、25章から31章までは、この「石の板」が納められる幕屋の設計図と礼拝の仕方が語られます。主 (ヤハウェ) が、火の中にあってシナイ山に降りて来られた時、煙は溶鉱炉のように立ち上り、全山が激しく震え、雷と稲妻と角笛の音が響いていました (19:16–18)。
太陽に近づく者がその熱で瞬間的に蒸発するように、人は神に近づくことができません。ところが主 (ヤハウェ) はモーセに、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む」(25:8) と言われます。
このときのイスラエルは、逃亡奴隷の集団に過ぎませんでした。しかし、天地万物の創造主が真ん中に住んでくださるなら、何をも恐れる必要はありません。どんな強い敵にも立ち向かえますし、パンも水の心配もありません。
幕屋の心臓部は「十のことば」が書かれた石の板です。それを収める契約の箱を作り(25:10–21、長さ2.5キュビト:約1.1m、幅と高さ1.5キュビト:66cm)、その上に二つのケルビムの翼でおおう「宥めの蓋」を載せます (25:17–21)。
そして主は「わたしはそこであなたに会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る」(25:22) と約束されました。この後モーセは、山に登らなくても、この移動式の幕屋の中で主に出会い、みこころを聞くことができます。
ローマ書3章25節の「宥めのささげ物」ということばは、最近は「宥めの蓋」と訳すべきという解釈が多くなっています。
その前後は、「すべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに義と認められることになりました、それはキリスト・イエスによる贖いを通してのものです。神はこの方を宥めの蓋(贖いの座)として(公に)提示されました、真実を通しての、この方の血にあってのことです。それはご自身の義を証明するため……それはご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした」(同3:23–26) と記されています。
「宥めの蓋」は、聖なる神が罪人である私たちの真ん中に住んでくださること、また、そこにおいて、神がみことばを語ってくださることの象徴でした。
そして今、イエスご自身が新しい「宥めの蓋」として私たちの真ん中に住み、父なる神のみこころを示し、「新しい天と新しい地」へと導いてくださいます。
聖所の中のものは基本的にすべて純金で作られ、幕屋の幕も最高の材料が使われました。しかも、材料は、民からの強制徴収ではなく「進んで献げる心のある人からの・・奉納物」(25:2) でした。それはこの世の全ての王にも勝る栄光を主ご自身に帰するためでした。
人はアダム以来、神を自分のレベルに引き下げる傾向があります。しかし、それこそが、この世界の混乱のすべての原因であったと言えましょう。
神の幕屋は (26章)、長さ30キュビト (13.2m)、幅12キュビト (5.3m)、高さ10キュビット (4.4m) で、中の至聖所は10キュビト (約4.4m) の立法形でした(当教会の礼拝堂のスペースは長さが約13.5m:廊下のガラスブロックまで、幅が7.65m、高さが4.65mです)。
26章31–37節には幕屋の内部の構造が描かれます。幕屋の奥の「至聖所」は、ケルビムを織り出した最高の質の青、紫、緋色の撚糸と亜麻布による幕屋で仕切られます。ここには年に一度、大祭司だけがいけにえの血を携えて入り、「宥めの蓋」に振りかけることによって主 (ヤハウェ) と出会うことができました。
ヘブル人への手紙10章19、20節では、「私たちは、イエスの血において、大胆さをもって……至聖所に入ることができる」という趣旨のことが記されています。
現在は、すべてのキリスト者が「王である祭司」として、父なる神と語り合うことができます。それはイエスが「宥めの蓋」となられたからです。
その上で、祭司の任職のために七日間に渡る任職式を行い「祭壇……を聖別するために」、毎日雄牛一頭を献げる必要がありました (29:10–37)。会見の天幕と祭壇、また祭司の聖別のためにどれだけ大きな犠牲を払う必要があるのかを見る時に、祭司の勤めの大切さが分かります。
後に民の堕落は何よりも祭司から始まっていることがわかります。現在の教会の牧師は旧約の祭司とは全く異なりますが、民に主のみこころを示すという働きにおいては重なる部分があります。
私たちも牧師職や礼拝のための設備の聖別に心を傾ける必要がありましょう。サタンはそれらから教会を破壊し始めるということを忘れてはなりません。
会見の天幕の前の祭壇では、毎日絶やすことなく朝と夕方、雄羊一頭を全焼のささげ物とするように命じられました (29:38、39)。
その上で主は、「その場所でわたしはあなた方に会い……あなたがたと語る……わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる」(29:42–45) と言われました。
幕屋は、イスラエルが持ち物と時間を献げ、主に仕えるための舞台でした。主は、ご自身が定めた方法による礼拝を、民が全身全霊でささげているその中に住み、出会ってくださるのです。
今は、イエスご自身が永遠の贖いを成し遂げてくださったので、私たちはいけにえをささげる必要はありませんが、自分自身を日々主にささげるように召されています。
そのことをパウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ12:1) と記しています。
30章1–6節には「香をたくための祭壇」を作ることが命じられます。そこで朝と夕に「香りの高い香」がたかれる必要がありました (30:7、8)。その香油は特別に調合された聖なるもので、決して人間のために用いてはなりませんでした (30:22–33)。
香は「聖徒たちの祈り」(黙示5:8) を表します。イスラエルに命じられた礼拝の背後にどれだけの働きが必要だったことでしょう。
そこでは最高の「栄光と美」が見られ、最高の「香り」が献げられ、大切に育てた動物を「全焼のささげ物」とするという痛みがありました。
私たちはどこかで、自分たちが心地よさを感じられる機会としての礼拝を求めてはいないでしょうか。しかし安さや手軽さを第一とする生き方では長期的な満足が生まれません。真の出会いのためには高価な犠牲も必要です。
ところがイスラエルはこの後すぐ、自分たちの都合に神を合わさせ、持ち物と時間を惜しむようになり、「主 (ヤハウェ) を知る」ことができなくなります。それで神は、ご自身の側から、最も高価な犠牲を払ってくださいました。何とご自身のひとり子をいけにえとされ、私たちのすべての罪を赦してくださいました。
そして今は、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16第三版) と記されます。私たちが建てている幕屋は、一人ひとりがキリストのからだの一部として結び合わされ、組み合わされている愛の共同体です。神は「まことの礼拝者たち」を求めておられます (ヨハネ4:23)。
ただそれは、神ご自身が私たちを恋い慕ってくださったというところから始まっていることを決して忘れてはなりません。神は私たちの献身を、また真実な愛を求めておられますが、それはアダムの子孫には不可能なことでした。それで、神はご自身の御子とご自身の「御霊」をお与えくださったのです。
その意味で、礼拝は、一方的に神からの恵みを受けることから始まることは間違いがありません。しかし、そこから愛のキャッチボールが始まるのでなければ、より深い出会いを体験はできないのです。
今、私たちが献げる「いけにえ」は、「賛美のいけにえ」と「善を行うことと、分かち合うこと」(ヘブル13:15、16)、つまり、礼拝 (Worship) と分ち合い (Fellowship) の二つです。
第一は「御名をたたえる唇の果実」とも言い換えられます。それは神のみわざを一致して告白するということで、音楽はその一部です。黙示録の礼拝には、幕屋と同じように、金の燭台、香の煙、金の冠をかぶった長老、美しい宝石などが出てきます。
私たちももっと工夫を凝らし、全身全霊をもって神の栄光をたたえることができるのではないでしょうか。しばしば、プロテスタントの教会は人間の五感の部分を軽視し過ぎると言われています。神の尊厳が現されるところでは、ひとり子イエスと同じ立場にされた私たち自身の尊厳 (Sonship) も覚えられます。
そして「善を行い、分かち合うこと」は、私たちの交わりの中での交わりが最優先されますが、同時に私たちは自分自身が、小さなイエスとされた誇りを持って「地の塩」「世の光」(マタイ5:13、14) として派遣されることを覚える必要があります。
人はみな「神のかたち」に創造されました。それは、神のイメージをこの世界で現すためでした。ところが人は、神のかたちとして、神の愛とあわれみを現わす代わりに、「神のかたち」に創造された自分を神の競争者にしてしまいました。
最後に、神の栄光を忘れたことによって、人は神からあずけられた栄光を失ったことを覚えたいと思います。神を侮る者は、「神のかたち」として創造された自分をも軽蔑してしまっているのです。しかし、神をあがめる者は、いのちの尊厳を体験できます。

