現地時間1月2日に起きた、米国トランプ政権によるベネズエラ大統領捕縛のニュースが世界を震撼させています。
昨年のノーベル平和賞はベネズエラの反体制指導者のマチャド氏に授与され、世界中の人々がベネズエラ大統領の極悪非道な圧政を知るきっかけとされました。しかし、米国による軍事介入には、厳しい批判も巻き起こっています。
これに対し私たちに日本の福音派の教会と交わりの内にある、ベネズエラ福音同盟 (CEV) はこの事態が起きた同日に次のような声明を発表したとのことです。
「不安や恐怖を感じている全ての兄弟姉妹、そして同胞の皆さんに、私たちは祈りと連帯をささげます」「私たちは、諸国を統治し、永遠の目的に従って歴史を導く神の主権への信頼を改めて表明します。神の支配から逃れるものは何もなく、私たちは神に平安を見いだします」
CEVはその上で、全ての国民と信仰者に対し、恐怖や不安に支配されないよう求め、絶え間なく情報が流れるSNSから距離を置くことを呼びかけている。その上で、それらの時間を祈りや兄弟姉妹間の交わり、奉仕、家族の幸福を築くことのために用いるよう勧めている。
「私たちは、この国の平和と、正義、真実、そして全ての市民の尊厳を尊重する真の永続的な変革を祈ります。私たちは教会として、福音を宣べ伝え、神の民を築き上げ、共通善を追求することに尽力し続けます。主が私たちに知恵、節制、そして暗闇の中で光となる勇気を与えてくださいますように」
一方、米国亡命中のアリストテレス・ロペス牧師(ベネズエラの「マーチ・フォー・ジーザス」の創始者)は、マドゥロ氏の拘束と米国への移送は、神の介入であり、長きにわたり苦しんできたベネズエラに対する正義の実現だと述べたとも報じられています。
ただし、先日の映画ボンヘッファーの映画の際にも、彼がまるで自爆テロによるヒトラー暗殺計画に加わったかのように描かれていることに違和感を覚えると書きましたが、不当な暴力による問題解決には注意が必要です。
先日の礼拝メッセージで、時間節約のために省いてしまった言葉があります。このようなことが起きているとは知らずに省いただけですが……
出エジプト記23章27–31節には、主ご自身が約束の地から偶像礼拝者を追い払ってくださることが約束されていますが、「わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することがないためである」(29節) と記されています。
これは現代にも適用できます。神は私たちの前に、様々なわざわいを起こすような人を残していますが、それは彼らを一度に追い払うと、この地が無政府状態になるからです。たとえば、米英がイラクの横暴なフセイン政権を一気に打倒しましたが、その結果、自称イスラム国というさらに極悪非道な政権が生まれました。
ここで神は、「わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう」と言っておられます。忍耐が何よりも大切です。
忍耐の中での祈りの代表こそ詩篇102篇です。
詩篇102篇1、2、8–13、23、24節「絶望感の告白からの希望」
この標題には、この詩篇の祈りの核心の意味が、「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主 (ヤハウェ) の前に注ぎ出したときのもの」と記されています。私たちも、苦しみのただ中で「気落ち」するとき、どのように祈るべきかの導きがここにあります。
この祈りは、「主 (ヤハウェ) よ 私の祈りを聞いてください」という直球のことばから始まります。
そして2節の原文は、「御顔を隠さないでください」から始まり、「すぐに私に答えてください」で終わります。これはイエスが十字架で詩篇22篇のことばを用いて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られたことに通じます。絶望感をまっすぐに告白できることのなかに希望が生まれるのです。
3–7節には自分の状態が驚くほど繊細な詩的表現で次のように訳すこともできます。
私の日々は煙のように失せ、骨々は炉のように熱い。
心は青菜のように打たれてしおれ、パンを食べることさえ忘れるほど。
嘆きの声のため、私の骨々は皮にくっついてしまった。
まさに荒野のみみずくにも似て、廃墟のふくろうのようになっている。
私は目覚めたまま、屋根の上のはぐれ鳥のようになった
これを見て友人のシャンソン歌手は、「まるでシャンソンの歌詞よう」と言ってくれましたが、「演歌のよう」と言っても良いかもしれません。
私たちの心が深く傷つき、絶望的な状況にあるとき、それが詩的に描かれると、深い孤独感が癒される気になります。
続けて8、9節では自分の周りが敵だらけで、その誹謗のことばに、涙がとめどもなく流れる悲惨が描かれます。そして10節ではその原因が神にあることを、「あなたが 憤りと激しい怒りのゆえに 私を持ち上げ 私を投げ捨てられたから」と訴えられます。
ところが、12節からはすべてが逆転される希望が歌われます。そこではまず、「しかし、あなたは 主 (ヤハウェ) よ」ということばから始まり、主の永遠のご支配が賛美されます。
そして13節も「あなたは」という呼びかけから始まり、「あなたは立ち上がり シオンをあわれんでくださいます」と、主がご自身の行動を変えてくださったかのように歌われます。
しかもその理由が、「今やいつくしみの時です。定めの時が来ました」と、著者自身の神のみこころの変化のタイミングが知らされたかのように歌われます。
14–22節は、旧約の預言書で繰り返されるイスラエルの回復の希望が描かれます。著者は自分の個人的な苦難とイスラエルの苦難を重ね合わせ、そこに神ある希望を見ているのです。
ただ、それでいながら、23節では再び、「主は 私の力を道の半ばで弱らせ 私の日数を短くされました」と、自分の絶望感が、主ご自身に由来すると訴えられます。
しかし、不思議なのは同時に、「私は申し上げます」という枕詞とともに、「私の神よ 私の日の半ばで 私を取り去らないでください」と明確に訴えられていることです (24節)。
「運命だと思って諦め、それを受け入れよう」というのは演歌の世界です。しかし、聖書の世界では、「この苦難をもたらしたのは神なのだから、そこには希望がある。だから、神がご自身のみこころを変えてくださるように祈ってみよう」ということになるのです。
【祈り】主よ、あなたは、私が自分の絶望感を詩的に表現することを助けてくださることを感謝します。私はそれを通して、自分の傷ついた感情を優しく受け入れ、同時に、あなたに向かってお祈りできるようになりました。
絶望感を希望に変えてください。

