詩篇104篇〜イラン問題、世界が一つであること

 今、イランのイスラム政権が崩壊の危機を迎えています。最大の原因は通貨価値の暴落と激しい物価上昇です。イランは過去6年程度、毎年、30-40%のインフレが進行していましたが、最近は年率48.6%もの上昇率になっています。
 自営の商店主から始まってデモが全国に広がっています。

 イランは今から48年前の1978年までは、米国に支持されたパーレビ国王の独裁下にありました。それはイスラム教原理主義者のホメイニを中心としたイスラム革命によって転覆しました。僕がドイツに社費留学した1979年には語学学校に多くのイラン人が亡命し、学んでいました。
 当時の日本では、パーレビ国王の弾圧ばかりが話題になり、ホメイニ氏は民衆の広い支持を集めていると報じられていました。しかし、現実はまったく違いました。
 イスラム教はもともと、日々の生活に寄り添った現実的な宗教形態でした。しかし、ホメイニとその後継者が立てたイスラムの教えに従った政治、経済政策は、日々の生活をイスラム教の教えに従って変革するという、原理主義的な理想に燃えた非現実的なもので、同時に、異なった解釈を広げるイスラム教徒を徹底的に弾圧するという過激なものでした。
 しかも、彼らはその原理主義的な解釈によって、イスラエルの存在を全否定し、パレスチナの過激派、それを応援するレバノン、シリア、イエメンなどの過激派組織を経済的に支援していました。
 ドイツを中心としたEU諸国に驚くほどの難民が流れ込む大元にはイランやロシアによるシリアの独裁政権支援やテロ活動支援がありました。
 最近まで続いたベネズエラの独裁政権も中国の保護がなければこれほどの問題になることはありませんでした。

 最近は米国のトランプ政権の国際法無視の過激な行動が非難されていますが、今まで、イランやロシア、中国がどれだけ世界中の独裁政権やテロ組織を支援してきたかを見るときに、そのような独裁政権が一日も早く無くなることを願うのは当然のことと言えましょう。
 ドイツを初めとするEU諸国は驚くほど多数の難民を受け入れてそれが国内の政治問題化していますが、もともとイランのようなイスラム原理主義政権が存在していなかったら、これほどの難民を生み出す政治の不安定化は起きていなかったとも言えましょう。
 世界は本当に一つに結びついています。ベネズエラやイランに続いていた独裁政権が内側から崩れつつあります。
 中国、ロシア、イラン、ベネズエラ、キューバ、北朝鮮などの国々が一つに結びついて、欧米やアジアの健全な政権を内側から壊そうとしているという全体的な流れを見る必要があります。幸い、それらの国々は、今、内側から崩れ始めています。
 公平で真実な創造主を認めない独裁政権が内側から崩れ始めていることに、私たちは希望を見出したいと思います。

詩篇104篇10–24節「自然か、神のみわざか」

 日本語の「自然」ということばは英語の nature の訳語として、仏教用語の「じねん」を充てたとのことです。そこには、「みずからしからしむ」という意味が込められています。もともと Nature にもラテン語の「生まれたもの」という語源があるようです。どちらも創造主を前提としない用語です。
 それに対して、聖書の世界では、この世界のすべてのものは唯一の創造主の作品として描かれています。しかも、それは機械のような無機質なものではなく、創造主の「いのち」の輝きを現わすダイナミックな存在です。
 そのことがこの詩篇104篇全体で美しく表現されています。私たちは美しい山々やその木々、川の流れ、大海、無数の星を見て、それらを神々としてあがめる代わりに、そこに私たち一人ひとりをも母の胎のうちで組み立ててくださった神のあわれみに満ちたご意思を見ることができます。それは、自然なことではなく、聖霊のみわざです。

 あるとき高い山々を巡り歩き、大きな川の源流となる泉から水が湧き出るのを見ながら、「主は泉の水を谷に送り、山々の間を流れさせ」(10節) という表現が心の奥に迫ってきました。それが、天の神が地の谷の間に「泉を送った」からと記されているのに感動しました。
 その結果として、「野のすべての獣」がその水を飲み、木々が生えて「空の鳥」が「枝の間でさえずります」という感謝が生まれているのです。

 そのことがさらに、「主は その高殿から山々に水を注がれます」(13節) と描かれます。当時の人々も「水が川から海へ、そしてまた山々の川へ」へという循環は理解していましたが (伝道者の書1:7)、それを決して、「自然」とは言いませんでした。
 この世界のいかなるものも「自然に生まれる」ことはありません。そのことが、「主は 家畜のために草を また 人が労して得る作物を生えさせます」(14節) と描かれます。
 たしかに人の労働によって作物できるのですが、それを「生えさせる」のは、光や水の創造主ご自身なのです。
 15–18節には、人間を含むあらゆる生き物の喜びが描かれますが、それらもすべては神の御手のわざの現れです。しばしば、神はこの地の上に「自然のサイクル」を造り上げて、それを天から見下ろし、必要に応じ、また、人の叫びを聞いて、その自然の中に介入すると解釈され、それが神の奇跡と呼ばれます。
 しかし、ここに記されているように、一瞬一瞬のできごとが神のあわれみの奇跡の連続なのです。

 19–22節では、季節や日々の繰り返しが、神のみわざとして描かれます。
 そこで23節の「人は 自分の仕事に出て行き 夕暮れまでその働きにつきます」という記述は、私たちの労働自体が神の恵みのリズムの中で起きていることを強調したものです。
 「働くことができる」こと自体が、圧倒的な神の恵みのみわざの現れなのです。
 そして24節ではそれらをまとめるように、「主 (ヤハウェ) よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう……地はあなたのもので満ちています」と記されます。
 聖書によると、この地に「自然に生まれるもの」などありません。
 すべてが創造主の御手のわざであり、すべてのものが、「その方のもの」なのです。そして、当然ながら、私たちの存在やいのちも、あわれみに満ちた「主のもの」です。一瞬一瞬が神の奇跡の連続なのです。


【祈り】主よ、毎日が主のあわれみのみわざの連続であることを感謝します。この世界に、「あたりまえ」なことはありません。「自然に生まれる物」もありません。日々の生活の中で、一瞬一瞬、神の御手のわざに感謝するものとさせてください。