詩篇106篇〜米国とヨーロッパとの対立?

 日本は総選挙モードに入りましたが、今日から(現地時間1月19日 ㈪)から23日金曜日まで、全世界の政治、経済界のリーダーたちがスイスのダボスという小さな町に集まり、世界経済の今後について話し合います。毎年この時期に開かれていますが、今年は世界130か国から約3,000人のリーダーが一同に会します。
 日本からも意外に多くの方々が、身近な方が参加するかもしれません。
 G7の首脳たちは、高市首相以外は参加しますが、最大のテーマはグリーンランドの問題になっています。米国のトランプ大統領が、グリーンランド獲得のために関税をも武器に使うと言ったことに対し、ヨーロッパの首脳たちは対抗関税で応じると最近発表しました。
 残念ながら、ヨーロッパの世論はトランプ大統領への対抗ということでまとまっており、これはウクライナ停戦交渉にも影を落とします。ダボス会議にはウクライナのゼレンスキー大統領もロシアの代表も参加します。
 多くの世論は、トランプ大統領の政策を大国のエゴとということで軽蔑するような態度を取っていますが、そのようは見方では、問題の解決を望むことはできません。

 以前、英国がEUからの離脱を決めた時に、EUの意思決定が官僚主義的に流れているということが大きな理由とされました。ドイツやヨーロッパ北部に広がる安定した国々の官僚主義の支配下に置かれることへの反発です。
 グローバルな視点から見れば、グリーンランドをアメリカが取得しなくても資源は健全な貿易で問題なく手に入りますし、ロシアや中国の影響は、米国を含むNATOで対抗できることです。米国が所有する必要はまったくないというのがヨーロッパの共通した見方かと思います。
 それに対して米国の保守派からすれば、EUの官僚機構の中で管理された軍事や貿易体制では、迅速な意思決定ができないということになるのかと思います。リベラリズムのイデオロギーに支配された政治では、柔軟な対応ができないと考えるのかと思います。
 実は、ここにも米国を分断しているイデオロギー対立が影を落としているのかもしれません。

 ただ、どちらにしても、今週は、意見の対立する人同士が、同じ場所に集って、顔と顔を合わせて話し合うことができる、すばらしい機会です。今年の世界経済の安定のためにかけがえのない対話の機会が与えられます。
 今後の世界があまりにも不透明に見える中で私たち信仰者に求められる視点が何なのかを共に考え、祈って行きたいと思わされます。
 以下の詩篇106篇は神様の救いのご計画を考える際の最高の視点を示してくれます。

詩篇106篇6–12節、40–46節「御名のゆえの救い」

 この詩篇には、「私たちは 先祖と同じように罪を犯し 不義を行い 悪を行ってきました」(6節) というイスラエルの民の不従順の歴史と、主 (ヤハウェ) の「いつくしみ(善)」と「恵み(ヘセド:契約を守る不変の愛)」(1節)との関係が繰り返し描かれています。
 7節ではエジプトにおけるイスラエルの民の恩知らずな態度が思い起こされます。彼らは目の前の期待が裏切られるたびに、モーセを退け、神に逆らい続けていました。
 主が十のわざわいをエジプトに下し、奴隷状態から解放してくださったときにも、ファラオの軍隊が「葦の海」に追い迫って来るのを見ると、彼らは「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れてきたのか」(出14:11) という皮肉を用いてモーセを非難しました。
 その際の彼らの問題がここで、「あなたの豊かな恵みを思い出さず」と記されますが、英語では (ESV、NRS)、「they did not remember the abundance of your steadfast love(彼らはあなたの不変の愛【ヘセド】の豊かさを思い出さず)と訳されます。
 鍵のことばは「恵み」と訳されている「ヘセド」であり、イスラエルの民の根本的な問題は、その「豊かさ」を軽蔑したことにあるというのです。

 8節では「しかし、主は 御名のゆえに 彼らを救われた」と記されます。「御名のゆえに」とは、「名は体を表す」などとも言われるように、主がご自身のあり方を民に明らかに示すために、民の忘恩の行為に耐えながら、1節にあった「恵み:契約を守る不変の愛(ヘセド)」を現わされたことを指し示します。
 さらに続けて、主のみわざが具体的に、「主が葦の海を叱ると 海は干上がり 主は彼らに海の深みを歩かせられた……主は……敵の手から彼らを贖われた」(9、10節) と描かれます。
 そして12節では、「すると 彼らはみことばを信じ 主への賛美を歌った」と記されることになります。ところがその直後からなお繰り返し、主の御怒りを引き起こし続けたことが描かれます。
 40–42節は主の御怒りのクライマクスとしてのバビロン捕囚のことが描かれます。そこでの「主はご自分のゆずりの民を忌み嫌われた……敵どもが彼らを虐げたので 彼らは征服され 敵の手に下った」という表現には心が痛みます。
 イスラエルの民が異教徒の支配で苦しむのは、主ご自身の意思であったというのです。その理由が改めて、「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが 彼らは相謀って逆らい」と記されます (43節)。
 
 44、45節では、「それでも 彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められ……ご自分の契約を思い起こし 豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた」と記されます。
 ここでも7節の英語訳と同じように「主の不変の愛(ヘセド)の豊かさにしたがって」と訳されることばが記されています。
 そして、その結果が46節で、イスラエルの民が捕囚下にありながら、バビロンの支配者から「あわれまれる」こととして描かれます。実際、彼らにとって捕囚は、神の民としてのアイデンティティーを明確に確立する機会になりました。
 最後に、「国々から私たちを集めてください」(47節) という祈りに、彼らの復興の希望が描かれます。そして、彼らは「キリストにあって 一つに集められる」(エペソ1:10) ことになるのです。ここに新約への連続性が生まれます。


【祈り】主よ、あなたの「不変の愛の豊かさ」を感謝します。あなたがアブラハムに、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創12:3) と約束されたことを、イスラエルの救いから異邦人の救いへと結び付けておられるご計画に感謝します。