詩篇110篇〜選挙運動情報

 まもなく衆議院議員選挙の投票日を迎えますが、それが近づくに連れて、それぞれの政党に対する中傷合戦が激しくなっています。
 感謝なことに当教会には、ありとあらゆる政党の支持者が集っていますが、それぞれがご自分の見解を隠してもいないので、何となくわかってしまいます。
 僕自身も自分の過去の経歴を恥じることなく証ししますので、多くの人は僕の政治的見解をある程度は理解してくれていると思います。
 そして、異なった政治的な見解を持つ人が、ともに同じ救い主を礼拝できているということこそ、この世界に対する最大の証しになっていると思います。

 SNS情報をよく見ていますが、上記のような友人関係から、僕のサイトにはありとあらゆる政治的な意見が入ってきます。
 注意が必要なのは、SNSでは、その人の興味に沿った記事が見られるような設定がなされるために、たとえば現政権に批判的な人には、批判的な記事ばかりが見られるようになり、また現政権を応援する人には、それを強化する記事が見られるということです。
 その結果として、その人にとっての「常識」がますます強化されて、対立する意見の趣旨がまったく理解できなくなります。
 あなたのSNSでは、どれだけ異なった意見が見られるか、それが問われていると思われます。

 そのサイトでは、どこかの政党が力を持つと、この日本はとんでもないことになるという危機意識が煽られてしまい、それがさらに政治的な対立を深めてしまうことになります。
 特に、米国のキリスト教会では、現政権に対する評価があまりにも対立的になり、それが教会離れを加速する原因になったりするとも報じられています。
 
 しかし、この世界の政治をまったく異なった観点から見られるようにするのが、キリストの福音ではないでしょうか。私たちの主イエス・キリストは二千年前のローマ帝国での常識からしたら、十字架にかけられた犯罪人の一人に過ぎません。
 しかし、イエスは三日目に死人の中からよみがえり、死の力に打ち勝った救い主として崇められています。イエスの誕生を起点にして、この世界の暦が書き換えられるほどになりました。紀元前とは、Before Christ キリスト以前という意味であり、紀元後とは Anno Domini(主の年)つまり、キリストの支配が現わされて何年という意味になります。
 世界の暦が、キリストの支配という観点から見られるようになっています。
そのような観点から、この世の政治を見るときに、もっと落ち着いた政治に対する見方ができるような気がしています。
 詩篇110篇は、まさに政治的な詩篇とも言えます。

詩篇110篇1–7節「ダビデの子、ダビデの主」

 ダビデがどのような意図でこれを記したかは永遠の謎でしょうが、これは新約聖書に最も多く引用されている旧約の箇所の一つです。
 主イエスはパリサイ人たちに向かって、キリストがダビデの子と呼ばれるなら、「どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた……』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と問いかけました (マタイ22:41–45)。
 この問いには、当時、誰も答えられませんでした。それは、キリストが「ダビデの子」としての人間であるとともに、キリストが神の御子として「ダビデの主」であるという不思議を現わします。まさに神秘的な詩篇です。

 イエスが引用された1節を用いて、使徒ペテロもペンテコステの日に、そこに集まっていたユダヤ人たちに向かって、「ダビデが天に上ったのではありません……神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです」と訴えました。
 すると人々は心を刺され、イエスを救い主として受け入れました (使徒2:34-37)。復活のイエスは、ダビデの主として、神の右の座に着座されたからです。

 ある方は、高校二年生のとき、その使徒の働きを読んでこのみことばに出会い、ほとんど意味が分からなかったものの、「ただただ、平安が降って来た感じ」に満たされてイエスを救い主として受け入れたとのことです。それこそ聖霊の働きです。
 彼女はそれから約20年もたって「主イエスこそが王として全てをその足元にすべ治めておられる」という神学的な真理として、文脈から理解して、これを証しできるようになりました。彼女は恵まれた環境に育ち、知的能力も優れていましたが、心の奥底で人生が制御不能になることを恐れていました。
 しかし、自分の罪のために十字架にかかられたイエスが、この世界のすべてを支配しておられるという「感覚」が不思議な「平安」を生んだのでしょう。
 十字架の犠牲と王としての支配の関係は、人知を超えた神秘です。

 2節ではキリストの支配が「敵のただ中」に現わされ、3節では主の民がサタンとの戦いの中で「喜んで仕える」ことが描かれます。
 3節の終わりは、「あなたの若者の朝露は、あなたに属する」とも訳すことができ、クリスチャンが日々、キリストからの朝露のような新鮮な力を受けて世界にキリストの支配を広げることと理解できます。

 4節はヘブル人への手紙7章17節に引用され、キリストが新しい契約の永遠の大祭司として私たちを神に近づけてくださることとして描かれます。
 また5、6節では、神の「右におられる主」が「神のことば……王の王、主の主」(黙示録19:11–16参照) としてこの世の横暴な者たちを「打ち砕かれる」と描かれます。
 つまり、キリストは大祭司であるとともに力に満ちた支配者であると描かれているのです。
 罪人のままの私たちを「神の子」とするためにダビデの子のイエスは永遠の大祭司として十字架にかかられましたが、そのイエスはすでに神の「右」の座に着座され、この世界を治めておられます。
 終わりに日にそのことが誰の目にも明らかになるのです。このように、イエスの弟子たちはこの詩篇を通して、イエスがダビデの子で、ダビデの主でもあるという神秘を感じ取りました。


【祈り】イエスが神の右の座に着かれた「王の王」であり、また新しい契約の大祭司であることを感謝します。その神秘が、この短い詩篇に預言的に描かれています。私たちの知性では完全に理解できなくても、その真理が私たちを導いてくださいますように。