詩篇111篇〜ユダヤ人のラビがなぜクリスチャンになるか

 とっても興味深いyoutubeサイトを見つけました。
 アメリカに住む伝統的なユダヤ人の家庭で育ち、ユダヤ教の教師であるラビとなった人が、イエスを救い主と告白するようになったという証しです。
 イスラム教徒がクリスチャンになる場合も、家族や共同体から完全に排除されるということを聞きますが、米国に住む伝統的なユダヤ教の共同体でも同じことが起きるようです。
 伝統的なユダヤ教の会堂に集うユダヤ人が、キリスト教信仰を告白したとたん、その人は家族の中で死んだ者と見做され、ユダヤ人社会から排除されるという現実が今のユダヤ教徒の中でも起こるということを知りました。

 そのラビの回心の証しと、それによって彼は家族も仕事もすべてを失いながら、キリストのうちにある自由と平安を味わい、新しい歩みを始めているという証しです。
 少し長いですが、英語の字幕が出ており、わかりやすいビデオなので、お時間のあるときに でご覧になることをお勧めします。

 この方は23年間もの間、ユダヤ教のラビとして、私たちが旧約聖書と呼ぶ聖書を教えて来ました。彼はあるときのクラスで、若い生徒からイザヤ53章5節の「彼」とは誰を指すのかという質問を受け、伝統的な教えに沿って、これはイスラエルの民を一人の人であるかのように象徴的に描いていると答えました。しかし、そのように答えながら、そこに大きな矛盾があることに気づきます。
そこには次のように記されています

彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。

 これは明らかに、聖書に描かれた「救い主」の現れを描いているとしか思えないと理解できました。
 彼はさらに、ユダヤ人の間では禁書とされている新約聖書を読み、そこに記された救い主が、モーセの律法を成就する方であるということに気づきます。
 さらにダビデが記した詩篇22篇が、明らかに救い主の十字架を現わしていることに気づき衝撃を受けます。
 またダニエル9章24-26節で「油注がれた者」つまり、キリストの受難が、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊前に起こると預言されていることに衝撃を受けます。
 
 さらにヘブル書9章22節で、「血を流すことがなかれば、罪の赦しはありません」と書いてあり、それはレビ記の記述のまとめであることを知ります。
 その上でユダヤ人たちは二千年前にエルサレム神殿を失い、いけにえの血によって罪が赦されるという道が閉ざされている、というその一方で、私たちの悔い改めによって罪が赦されるという教えは明らかにモーセ律法に反しているということに気づきます。
 まさに、イエスがご自身の血によって、すべてのいけにえを完成して、もう私たちはいけにえの血を流す必要がないという説明がなければ旧約の教えは成り立たないということに気づかされます。
 その他、旧約聖書を読めば読むほど、そこに預言された方がナザレのイエスであるという確信に導かれたという感動的なストーリーです。

 以下の詩篇111篇はまさにユダヤ人の子どもの教育のための最高のテキストであり、多くのユダヤ人はこれをヘブル語で暗唱しています。その内容をともに考えてみましょう。

詩篇111篇1–10節 記憶を主は刻まれた

 この詩篇111篇と112篇は両方とも各行の最初の文字がヘブル語の22のアルファベットの順番に美しく整えられています。
 たとえば1節の「私は感謝をささげよう」の最初の文字はヘブル語のアレフ (א) で、その後半の「交わりにおいて」の最初の文字はベート (ב)‎、2節の最初の「偉大」はギンメル (ג)、その後半の「尋ね求められるもの」はダレット (ד) と続きます。
 9、10節は3行に分かれ、全体で22行になります。これこそ最高のアルファベット歌と言えましょう。
 ユダヤ人はこれを喜んで暗唱できたことでしょう。

 3節の前半は「威厳」から、後半は「その義」から始まり、その関連で4節の原文では不思議にも「記憶を主は刻まれた。その奇しいみわざのために」と記されています。聖書には繰り返し神のみわざを記憶し続けるようにと命じられていますが、ここでは主ご自身が、海を二つに分け、ヨルダン川をせき止めるなどの圧倒的な「威厳」と「義」のみわざによって、忘れられない「記憶を刻んでくださった」と描かれています。

 5節の後半では、主ご自身が「覚えておられる。ご自身の契約を」と記されます。私たちが主の契約を覚える以前に、主ご自身が覚えておられるというのです。
 また6節の原文では「(みわざの)力……を告げ知らされた。(ゆずりの地を)与えられたことで」と、神の一方的な恵みのみわざが強調されています。
 7節の後半は「確かである」から始まり、8節の前半は「保たれる」、後半は「行われる」ということばから始まります。
 また9節の1行目は「贖いを送られた」という不思議な表現が記されます。それは民が主を呼び求める以前の、主の一方的なみわざです。
 続く2行目は「定められた、ご自分の契約を」、3行目は「聖である、御名は」と記されます。また10節もそれぞれの始まりが「初め、知恵の」、「賢明さを得る」、「誉れは永遠に立つ」と記されます。
 つまり、どの行でもその冒頭において、主の一方的なみわざがまず描かれ、私たちのなすべき務めが記されていません。私たちはどこかで、私たちの信仰深さの程度に応じて、神のあわれみが注がれるという、操作可能な信仰を求めてはいないでしょうか。

 ある方は、「ディボーションがだんだん辛くなってきた。毎回、その解説を読むたびに、神のみわざに対して私たちがなすべき応答が記されているけれど、それを実行できない自分を責めざるを得なくなるばかりだったから……」と語っておられました。
 そのようなとき、この詩篇においては、神がご自身の圧倒的なみわざを私たちの記憶に刻み、私たちが神を忘れても、神がご自身の契約を覚えておられ、私たちが主に向かって叫ぶ前から「御民のために贖いを送られた」と記されていることは何という慰めでしょう。
 イスラエルの子供たちは、ヘブル語のアルファベットを、この神の一方的なみわざとともに覚えることができました。主ご自身が民の信仰を育んでくださいます。
 10節においても「主を恐れること」こそが「知恵の始め」と記されますが、その「主への恐れ」を人々の「心に刻まれた」のは主ご自身のみわざであるとのテーマがこの詩全体で強調されているのです。
 そして、私たちの応答に無関係に、「主の誉れ」または「主への賛美」は「永遠に立つ」または「立ち続ける」と明言されています。


【祈り】主よ、あなたがご自身のみわざを私たちの記憶に刻んでくださる全能の主であられることを感謝します。どうか、私たちの心の目を、自分の不信仰を責める方向に向けずに、あなたのみわざをただ感謝し、喜ぶ方向へと向けてくださいますように。