今から7年ほど前に南アフリカで生まれたダンス曲があります。
何とズールー語という現地の歌詞ですが、世界中の多くのクリスチャンの間で話題になり、踊られてきたようです。
聖書によるとこの世界のゴールは「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た」(黙示録21:2) と記されています。その「新しいエルサレムへの憧れを歌った」曲かと思われます。
歌詞の内容は正確には分かりませんが、以下のようなことばの繰り返しのようです。
「エルサレムは私の家。私をここに置いて行かないで。私と一緒に歩いて、私の王国はここではない。
私と一緒に歩いて、私のために用意しておいてください。私の家はここではない、エルサレムこそ私の家。」
先日の衆議院議員選挙で、不思議な現象が起きました。理性的な中高年の政治指導者たちから「具体的な政策があまり見えない」と批判されながら、不思議に、高市総理大臣の語る漠然とした夢のような話に多くの方々が魅了されていったと言われます。彼女を鎌倉幕府以来七百年間続いた武家政権の基礎を築いた北条政子に例える人もいるとのことです。政子は源頼朝の死後、尼将軍として京都の後鳥羽上皇と戦い、朝廷と武家との併存の形を作ったとも見られています。
私は決して、高市早苗総理大臣をそのように推すつもりはありません。彼女には懸念すべき多くのことがあります。
しかし、何といっても、現在の日本は多くの問題を抱えています。
たとえば2024年の一人当たりGDP(国内総生産)では、韓国や台湾より下の40位になっています。ドイツは18位、イスラエルは20位です。
しかし2000年の一人当たりGDPランキングではリヒテンシュタイン、ルクセンブルグに次ぐ第三位で、世界の経済大国の中では第一位にありました。
今、日本では、多くの若者が未来への希望を持てずにいます。多くの政党が、その閉塞感に対し明確な希望を与えることができませんでした。
今の日本は、その希望に飢えているのかと思います。この歌が多くの問題を抱えている南アフリカから生まれていることに意味があります。そしてこの歌を、世界中の問題のるつぼとも言えるエルサレムで歌い踊ったのが以下の です。
これを見ていると、置かれている状況を超えた喜びと希望が感じられます。
喜びも希望も、世界がどれほど悲惨な中でも感じることができます。
それこそが聖書の福音です。詩篇113篇ではそのような希望が歌われています。
詩篇113篇1–9節「御名に込められた意味」
これは「エジプトのハレルヤ詩篇」とも呼ばれます。それはバビロン捕囚の苦難の中で、新しい出エジプトを期待して歌われたからです。伝統的には過越しの食事の前に113、114篇が歌われ、食事の後に115–118篇が歌われたとのことです。
1節の原文では、「ハルル(ほめたたえよ)」という呼びかけが三度繰り返され、「ほめたたえよ、ヤハ (ヤハウェの略) を。ほめたたえよ、ヤハウェのしもべたちよ。ほめたたえよ、ヤハウェの御名を」と記されています。
「ハレルヤ」は、「ほめたたえよ、ヤハを」という意味ですが、このように「ほめたたえよ」と訳して、このことばを三度繰り返してみると、創造主が私たちに何を望んでおられるかが心に迫ってきます。
2、3節では1節の終わりの「ヤハウェの御名」が中心テーマとなり、「ヤハウェの御名が祝福されますように、今よりとこしえまで。日の昇るところから沈むところまで、ほめたたえられますように、ヤハウェの御名が」と、ヤハウェの御名ということばが三度繰り返されます。
ユダヤ人たちはバビロン捕囚からの帰還後、律法を守ることに熱心なあまり、「主の御名」を口にすることを恐れ、その箇所に来ると主人を意味するアドナイと読み替えました。しかし、彼らはその名を現わすヘブル語の四文字יהוהを思い浮かべることができたことでしょう。発音がヤハウェであったかは分かりませんが、この文字が、主がご自身の名をモーセに「わたしは『わたしはある』というものである」(出エジ3:14) と紹介されたことに由来し、それを三人称形の「彼はある」として表現されたという経緯は知らされていました。
そこには、「すべての始まり、すべての出来事の原因である方」との意味が込められていたと思われます。
異邦人には神聖な四文字は縁遠くても、ユダヤ人はその文字を思い浮かべることができました。その違いは大きいのではないでしょうか。新改訳聖書で太文字の「主」と記されているとき、そこに主の御名の深い意味が込められていることを味わいながら、読みたいものです。
4節の原文では、主の御名が文の真ん中に来るように、「すべての国々の上に高くおられるヤハウェ、その栄光は天の上にある」と記され、この御名には「世界のすべてを支配し、天をも超越した方である」という意味が込められていることが示唆されます。しかもこの方は、先に述べたようにすべての存在を生み出す方であられます。
5節からはヤハウェである「私たちの神」のみわざが描かれます。当時の人々にとっては、「すべての存在の原因」という哲学的な命題よりも、この地の人々にもたらす現実の変化こそが、創造のみわざとして身近に思えました。
その創造主のみわざが、「弱い者をちりから起こし 貧しい人をあくたから引き上げ 彼らを 高貴な人々とともに……座に着かせられる。主は 子のいない女を 子を持って喜ぶ母とし」と描かれます。
これこそヤハウェの御名にふさわしいものです。私たちは今、神を「無からすべてを創造された方」と説明しますが、当時の人々にとっては、「不妊の女」と軽蔑された女性に、男子を誕生させることこそが、神の創造のみわざと認識できました。この賛美の背後に、預言者サムエルを生むことができたハンナの喜びの賛歌があります。
【祈り】「わたしは『わたしはある』というものである」とご自身の御名をご紹介くださったヤハウェである主よ、私たちが御名に込められた意味を、毎日の生活での、主の新しい創造のみわざの中に見出すことができるように、霊の目を開いてください。

