神は「聖」であられ、人が好き勝手な方法で近づくことができない方ですが、その方が私たちとの親密な交わりを築きたいと願ってくださいました。
愛とは相手のあり方や気持ちを、尊敬を持って受け入れることに始まります。相手の好みを考えずに人をもてなすことなどあり得ませんが、それなのに人は神に対して、そのお気持ちを遜って聞こうとする前に、自分の勝手な思いを押し付けようとはしていないでしょうか。
1.「大祭司アロンとその子らの任職と主 (ヤハウェ) の栄光の現れ」
8章には祭司の任職の様子が描かれます。これまではモーセ個人が行なっていた働きを、組織的に行うという意味もあります。
主 (ヤハウェ) はモーセに「全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ」(8:3) と命じます。そこで「主 (ヤハウェ) が命じられたとおり」(8:4) と記されますが、この表現はこの章だけで七回も登場します (4、9、13、17、21、29、36節)。七は完全数ですから、それを通して祭司の任職が全うされます。
それから「モーセはアロンとその子らを……水で洗った」(8:6) のですが、それは「きよめ」のしるしで、現在の洗礼式につながります。
新約の時代の私たちはすでに「肉のうちにではなく、御霊のうちにあります」(ローマ8:9私訳) から、肉においては異邦人である私たちもこのままで「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9) と呼ばれるようになりました。
そしてモーセはアロンに、主 (ヤハウェ) が命じられた「栄光と美を表す聖なる装束」(出エジ28:2) を身に着けさせますが、その中心が「エポデ」でした (レビ8:7)。
その上に「胸当て」をつけますが、そこにはイスラエルの十二部族を象徴する十二の宝石がはめ込まれ、頭のかぶり物の前面には金の記章が付けられ「主 (ヤハウェ) への聖なるもの」と彫られていました (出28:15、21、36)。
つまり、大祭司は、神に対してはイスラエルを代表し、民に対しては神の栄光と聖を示すという存在だったのです。ついでモーセは「幕屋とその中にあるすべてのものに油注ぎを行い……聖別し」(レビ8:10)、また、「注ぎの油をアロンの頭に注ぎ……聖別し」(8:12) ました。
その上でモーセは「アロンの子ら」には「長服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻いた」(8:13) と記されます。これは大祭司の装束とは決定的に違います。
なお、私たちの主イエスの場合は、ご自身の働きをイザヤ61章の成就として「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ……遣わされた」と言われました (ルカ4:18)。
しかもイエスは「アロンに倣って」ではなくアブラハムに勝る「メルキゼデクの例に倣って」の「とこしえの大祭司」とされています (ヘブル6:20、7:11)。
その上でモーセは、アロンとその子らのための「罪のきよめのささげ物の雄牛を近寄らせ」(8:14)、その血によって彼らが奉仕する祭壇を聖別しました。そして任職のための別の雄羊をほふり、その血を「アロンの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗った」(8:23) と描かれます。同じことがアロンの子らにも行われます。
それは主のみこころを聞き分け、主の手、主の足として仕えるためです。その他にも主 (ヤハウェ) への「芳ばしい香りとしての任職のためのささげ物」(8:28) の規定があり、任職式は七日間続きました (8:33、出エジ29:35、36参照)。
その意味が「主 (ヤハウェ) は……(祭司が)自分のために宥めを行うように命じた」(8:34) と記されます。アロンはかつて民の声に圧倒されて金の子牛を作り、堕落した礼拝を導いた張本人ですが、主はそんな彼と子孫をご自身の働きのために聖別し、用いようとされました。
そして今、私たちの大祭司は、イエスご自身です。主は、神の御子として、神の栄光と聖をそのままの姿で表すことができましたが、一方で、イエスは罪人の仲間、代表者となるために「すべての点で兄弟たちと同じようにされなければなりませんでした。それは……民の罪の宥めをするためでした」(ヘブル2:17私訳) と記されているとおりです。
そして、アロンが水できよめられ、油注ぎを受けたように、イエスはヨルダン川でバプテスマを受け、その上には、聖霊が鳩のように下って、大祭司の働きへと召されました。
それは、罪人の代表者となるための任職でした。どちらも、神ご自身の主導権で、人との交わりを築きたいと願っておられることです。
祭司としての任職が終わった八日目になって、アロンとその子らが、自分でいけにえを献げることが許されました (9:1)。
アロンは「自分のために、罪のきよめのささげ物として小牛……を、また全焼のささげものとして雄羊を……主 (ヤハウェ) の前に献げなさい」、またイスラエルの民全体の「罪のきよめのささげ物として雄やぎを、また、全焼のささげ物として……一歳の子牛と子羊を……交わりのいけにえのために雄牛と雄羊、また穀物のささげ物を取りなさい」と命じられ、「それは、今日、主 (ヤハウェ) があなたがたに現れるからである」と約束されました (9:2–4)。
そして彼らがすべてのささげ物を会見の天幕の前に連れて来たとき、「これは、あなたがたが行なうように主 (ヤハウェ) が命じられたことである。そのようにすれば主 (ヤハウェ) の栄光があなたがたに現れる」(9:6) と重ねて約束されました。
そして、アロンとその子らが、主が命じられたとおりに「宥めを行い」(9:7)、それらすべての「いけにえを献げ終えて壇から降りて来た」(9:22)、すると「主 (ヤハウェ) の栄光が民全体に現れ、火が主 (ヤハウェ) の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした」(9:23、24) と描かれます。
これは神がイスラエルの民を受け入れてくださったしるしでした。このとき「民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した」(9:24) と描かれます。民はこのとき「主 (ヤハウェ) の栄光」が現されたことに恐れとともに、大きな喜びと感謝を持って、この驚くべき光景を見たのです。
イエスの時代のユダヤ人は、神の御子の栄光の現れに気づかず、この「主 (ヤハウェ) の栄光」の現れを待ち望み続けていました。
2.「アロンの二人の息子たちへのさばき」
ところがその後、「アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主 (ヤハウェ) の前に献げた。すると火が主 (ヤハウェ) の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主 (ヤハウェ) の前で死んだ」(10:1、2) と驚くべきことが描かれています。
レビ記には礼拝規定とともに神による二つの死刑が記されます。もう一つは24章10-14に描かれた主の「御名を汚し、ののしった」者に対する石打ちの刑です。ここでは9章24節で「火が主 (ヤハウェ) の前から出て来て……を焼き尽くした」と描かれた直後に、「火が主 (ヤハウェ) の前から火が出て、彼らを焼き尽くした」と、まるでアロンの二人の息子が「全焼のささげ物」と同じように「焼き尽くされた」と描かれます。
その悲劇の原因は、勝手なときに勝手な方法で「主 (ヤハウェ) の前に近づく」(16:1、2) ことでした。ただし、彼らが実際に何をしようとしたのかはよくわかりません。
レビ記16章11–13節には年に一度の大贖罪の日に、大祭司が「祭壇から炭火を火皿いっぱいに……粉にした高い香を両手いっぱいに取り、垂れ幕の内側に持って入る……かおりの高い香とを取り……香から出る雲が、あかしの箱の上の『宥めの蓋』をおおうようにする。彼が死ぬことのないようにするため」と記されます。
つまり、彼らは聖別されていない「自分の火皿」を用い、大祭司が年に一度だけ至聖所に入る真似をしたのかもしれません。
とにかくこの日に、アロン自身ですら初めて大祭司としての任職を受け、モーセの指導に忠実に従って、自分の罪のきよめのささげ物を献げ、会見の天幕に入ることができたのです。
ところがアロンの二人の息子はそのようなステップを軽蔑するかのように、主の前に近づきました。しかし礼拝は「主 (ヤハウェ) がモーセに命じられたとおり」でなければ受け入れられないのです。
それでモーセはアロンに主のことばを、「わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す」(10:3) と伝えました。
これは、神はご自身が「聖であること」を、モーセとともに近づいたアロンを通しては民への祝福として、ナダブとアビフが近づいたときには、死のさばきとして現されたということです。それは神の怒りが、ソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼしたことに通じるとも言えます (創世記19:24、25)。
その後、モーセはアロンのおじの子たちに命じて、ふたりの死体を宿営の外に運び出させ、アロンと彼の残りの二人の子、エルアザルとイタマルには、神のさばきを受け入れ、取り乱すことなく静かに泣き悲しむことを、その上で祭司としての働きを続けるように命じます。
そして10章9節で「主 (ヤハウェ) はアロンに」直接に「会見の天幕に入るとき」の作法を語ります。その最初は「ぶどう酒や強い酒を飲んではならない」から始まります。これを見ると、アロンのふたりの子らは酒に酔った勢いで「異なる火」を主に献げたのではないかとも推測されます。
その上で主は祭司の務めを、「聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを分け……すべての掟を、彼らに教える」(10:10、11) ことと言われました、それは主の民を、偶像礼拝の影響を受けたこの世の文化の影響から守り、主の民の礼拝を導くことにありました。
それほどに祭司の責任は重大でした。新約の時代にもヤコブの手紙には「多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます」と記されます (ヤコブ3:1)。
旧約の民にとって「神に近づく」ことは「いのちがけ」でした。それを前提にイエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6) と言われました。
そして今、「私たちは聖所に入るための大胆さを持っている……それはイエスがご自身の血において、垂れ幕を通しての新しい生ける道を開いてくださったことによる……それこそはご自身の肉体によるもの」(ヘブル10:19、20私訳) と記されるように、私たちは神の「聖さ」に「打たれる」心配なしにイエスの血によって大胆に真心から神に近づくことができます。
それはイエスのみからである教会の交わりにおいてとも言うことができましょう。自分勝手な自家製礼拝では、神に受け入れられないことがあります。
3.「汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが分けられる」
ユダヤ人やイスラム教徒は今も豚肉を食べません。それは「ひづめが分かれ……反芻するもの」(11:3) という枠から外れているからで、それらは「あなたがたには汚れたもの」と言われます (11:7)。
また「水の中にいるもの」で「ひれと鱗のあるもの」という枠から外れている「えびやたこ」なども「あなたがたには忌むべきもの」(11:10) と言われます。
また鳥では、わしや鷹、カラスなど猛禽類が「忌むべきもの」(11:13–19) とされます。
そこには、神がご自身の民を他の民族から区別し、彼らを通してご自身の栄光を表そうという愛の配慮がありました。それは、親が幼い子に、「何が良く、何が悪いか」を一方的に教えることに似ています。
今から三千数百年前、イスラエルでは食中毒が極めて少なく他の民族よりも長寿だったとも言われます。
その祝福を受けるための鍵は、「地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身の身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主 (ヤハウェ) であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だから」(11:43–45) と記されます。
そして「聖」なる神こそが「聖さ」の基準を示される方なのです。これらの結論として「汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが分けられる」(11:47) と記されます。しかも、「きよい」(clean) と「聖」(holy) とは原文で全く異なったことばです。これらの規定は、イスラエルの民が地上の他の民と区別される上で大きな力を発揮しました。
しかしこれは同時に、福音が異邦人に広げられるための最も大きな障害となりました。それで使徒の働き10章では、神がペテロに汚れた動物をほふって食べるように命じたことと、ローマの百人隊長コルネリウスに神の民としてのバプテスマを授けることが同じ基準のもとに記されており、その中心聖句が「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(使徒10:15) でした。
レビ記にも新約時代にも共通する原則とは「きよさと汚れ」を人間の知恵によってではなく神の基準で考えることです。現在はキリストが神殿を完成してくださったので、すべてが新しくされました。
モラルとしてではなく儀式的な面での「汚れ」と「きよさ」を区別する尺度がどこにあるのかに関して、最近、多くの学者から認められつつある見解は、「自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない」(11:44) を中心聖句に、神は死とセックスから無縁であるので、神に近づくにあたってそれらから距離を取るという意味が込められているという解釈です。
特に死は、アダムの罪から始まっています。しかし、イエス・キリストが死の力に打ち勝ち、結婚関係をきよめてくださいました。
私たちに今求められていることは、「汚れ」から遠ざかること以上に、イエス・キリストに結びつくことです。私たちがこの世の汚れから聖くされるための秘訣とは、この世の問題から遠ざかることではなく、問題に満ちた世の只中で、心と口と行いと生き様を通して「イエスこそが私の主です」と証しすることです。
バッハの名曲、「主の、人の望みの喜びよ」はそのテーマのカンタータとして有名になりました。そのテーマはいつでもどこでも、心と口と行いと生き様によって「イエスこそが私の主です」と告白することです。その原曲の歌詞は次のように歌うことができます
- さいわいなるかな 主イエスを 持つ身は、 悩みのときにも 慰めたまわる。
イエスはわがために いのちを 捨てられ、 破れし心に ひかり灯せり。 - 主は わが 喜び いのちのみなもと、 恐れのときこそ 力を たまわる。
主こそ わがひかり、望みぞ 宝ぞ。いかなるときにも イエスを仰ぎ見ん。
4.「贖罪の日-キリストの十字架の原型」
レビ記16章では再び、聖なる神の御前に出る礼拝のテーマに戻り、モーセに対する教えの内容が、「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ」(2節) と記されます。
そこでは、「イスラエル人の会衆から……雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として……取る……くじを引く。一つは……主 (ヤハウェ) のため、一つ……はアザゼルのためである」(16:5、8) と記されます。
そしてアロンは「民のために、罪のきよめのささげ物である雄やぎを屠り、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を……『宥めの蓋』の上と『宥めの蓋』の前にかける」(16:15) と記されます。ここでの「上」と「前」とは同じ場所である可能性があります。「宥めの蓋」は「契約の箱」の上に載せられているものですが、その箱は高さが70㎝程度ですので、祭司の高さからは上に振りかけることと、前に振りかけることはほとんど同じ動きになります。
それは雄牛の血の場合と同じ動作であるとわざわざ記されていることから見ると、「指で七度その血を……振りまく」(16:14) という動作にこそ、焦点が当てられていると思われます。そうでないと、「宥めの蓋」は、毎年のいけにえの血が積み重なってしまうことでしょう。
何よりも大切なのは、そのことが「イスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕にも、このようにする」(16:16) と記されるように、至聖所と幕屋全体が、汚れた民の中にあることによって汚され続けるので、それを「きよめ、聖別する」(16:19) 必要があるという意味でした。
興味深いのは「宥めを行う」対象は「聖所」、「会見の天幕」、「祭壇」という礼拝施設となっていることです。それは主の臨在の場でした。これらの「宥めを行う」ことなしに、主 (ヤハウェ) は民の真ん中、会見の天幕の中に住むことができないからです。
以前の訳での「贖いをする」が「宥めを行う」と訳し直されたのは、この箇所のテーマが「罪からの解放」ではなく、「聖なる神が汚れた民のただ中に住む」ための「聖め、聖別」にあり、それが神の定めた「宥め」の儀式で達成されるからです。
会衆全体の「罪のきよめ」のための「雄やぎ」のもう一匹は「アザゼルのため」(16:10) ためと記されますが「アザゼル」とは「やぎ」と「去らせる」の合成語で、英語ではしばしば「scapegoat(スケープ・ゴート)」と訳される一方で、「荒野に住む悪霊」と解釈する学者もいます。それは「主のため」「アザゼルのため」との対比のゆえです (16:8)。
新改訳2017は「荒れ野のアザゼルのもとへ追いやる」(16:10) と後の立場で訳しています。その際、「アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、その上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ……荒野に追いやる。雄やぎは、彼らのすべての咎を負って、不毛の地へ行く」(16:22) と記されます。
ここで「咎」「背き」「罪」は罪に関する三つの類語ですが、これによって彼らのすべての汚れが、この「雄やぎ」に負わされ、宿営の外に出され「宿営がきよめられる」という意味があります。
これは神がイスラエルの民の共同体をきよく保つために与えた象徴的で教訓的な儀式でした。なぜなら、もしすべての民の罪と汚れを宿営の外に出そうとするなら、宿営の中は無人にならざるを得なくなるからです。
なお、イスラエルが荒野の旅路にあったときには、雄やぎは「不毛の地」に放たれ、衰弱して死ぬか、野獣に食い殺されたと言われます。エルサレムに神殿が置かれるようになってからは、その東12㎞の所にある岩の崖に連れて行かれ、そこから後ろ向きに落とされるようになり、その場所を「アザゼル」と呼んだとのことです。
イエスはイスラエルの「スケープ・ゴート」とされたとヨハネの福音書に描かれます。イエスを十字架にかけるよう扇動した大祭司カヤパは、「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だ」(ヨハネ11:50) と、ユダヤ人の最高議会を説得しました。
しかしそこで大祭司がそう語ったのは「イエスが国民のために……散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言した」(ヨハネ11:51、52) と解説しています。
しかし同時に、それはイエスご自身が望まれたことでした。罪は私たちを恋い慕いますから、「古い人をその行いとともに脱ぎ捨てる」(コロサイ3:9) ことが必要で、私たちはそれを「アザゼル」のように聖霊の宮であるこの身体から追い出し、その上で、復活のイエスを「新しい人」として着せていただきます。
その第一歩は自分の罪を主に告白することから始まります。
その後、「罪のきよめのささげ物……で、その血が宥めのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に運び出し、皮と肉と汚物を火で焼く」(16:27) と記されます。一般の人のための罪のきよめのささげ物の肉は、祭司が「会見の天幕の庭で食べる」(6:26) ように命じられていましたが、これは祭司自身と民全体のための身代わりですので、食べることはできません。
なおイエスの十字架に関してヘブル書の著者は、「ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」(ヘブル13:12) と描きますが、それは主ご自身が「贖罪の日のいけにえ」となられたことを意味します。
ですから私たちは、もはや動物のいけにえを献げる必要はありません。それは、「キリストは……雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ(天の真の)聖所に入られたのです。それは永遠の贖いを成し遂げるためです」(ヘブル9:11、12私訳) と記されている通りです。
神の幕屋は、天にある本物をこの地で表す「模型」にすぎません(ヘブル9:24)。今、本物の聖所である「天が開けて」(創世記28:12)、私たちが招かれています。
この贖罪の日が「第七の月の十日(2026年の太陽暦では9月20、21日)」(16:29) で、その日には「自らを戒める」ことが命じられました。イザヤ58章3、5節では「断食する」ことと並行して記されます。これはモーセの律法に命じられている唯一の断食の日で、単に食物を断つばかりか、香料やサンダルの使用、水浴、結婚を差し控えることをも意味したと言われます。
そしてこの日は、「全き休みのための安息日」(16:31) として、奴隷も含めたすべての人があらゆる労働から離れることが命じられていました。イスラエルの民はこの日、主 (ヤハウェ) が彼らの「すべての罪を除く宥め」(16:34) の手続きを定められたことを、心から喜ぶことができました。
ただし「贖罪の日」は、人間が自分で罪の赦しを獲得できるための手段ではなく、聖なる神が罪人たちの真ん中に住まわれたいと、ご自分から願われたからこそ与えられた、神の愛に満ちた定めでした。
出エジプト記からの流れでは、レビ記の礼拝規定の背後に、聖なる神ご自身が罪と汚れに満ちた民の真ん中に住んで、民を導きたいという熱い思いが隠されていることが明らかです。しかしイスラエルの民はその思いを理解せずに、偶像礼拝に走ってしまいます。
それで、神の御子ご自身が、汚れた人と同じ姿になって私たちのただ中に住んでくださいました。そこには聖なる神が、ご自身の御子を用いて私たちを罪の支配から贖い出し、新しい神の民を創造しようとする燃える愛が見られます。
しかも今、イエスは一人ひとりの心の中に聖霊を通して住んでいてくださいます。それが「主よ、人と望みの喜びよ」の主題です。

