詩篇118篇〜イランの今後

先週末の米国、イスラエルによるイラン攻撃には、世界中が驚かされました。
今後の中東地域の平和のために祈って行きたいと思います。
(以下の記事は現実の国際政治とは距離を置いて書いているつもりです)

 ただ、日本にいると分かりにくい現実がありますが、イランの一般国民と現在のイスラム政権を区別する必要があります。
一般のイラン人は、親日派が多く、歴史的にはユダヤ人との関係も良好です。
 日本との関係では、日章丸事件というのが親日感情の鍵になります。以下はウィキペディアからの引用です。

1953年、イランは石油国有化を宣言しましたが、これに反発したイギリスが経済制裁としてイラン近海を封鎖し、石油の買い付けに来るタンカーを撃沈すると宣言しました。これによりイランは石油が輸出できない状況に陥ります。そのとき、出光興産の社長である出光佐三は、この状況を日本のエネルギー確保の機会と捉え、イギリス海軍の監視をくぐり抜け、タンカー「日章丸」をイランに派遣しました。この取引は成功し、イラン国民は日本が出光興産の行動を「助け船」として歓迎しました。これは国際社会で孤立していたイランと日本の間の信頼関係を築きました。イラン政府関係者は、この出来事を70年間語り継ぎ、日本への感謝を示しています。この歴史的経緯から、イランは日本に対し特別な感情を抱いています。

 ユダヤ人との関係は今から2500年前のエステル記にまで遡りますが、イランの過半数を占めると言われるペルシャ系住民は、自分たちの歴史への誇りが強く、まとまりを欠きがちなアラブ人とは異なります。エステル記の顛末にも記されるように、ペルシャに対する好意的な感情を抱くユダヤ人が多く、ペルシャ系住民もユダヤ人に好意的な人が少なくないと言われます。
 問題は、アメリカに支援されて生まれたパーレビ国王の強権政治により、反米感情が高まり、その結果として1979年にホメイニを中心としたイスラム革命が起きたことです。今回、殺されたハメネイ氏は、ホメイニの後継者として、イスラム原理主義の強権主義によって、国を支配してきました。ちなみに、ハメネイはイランでペルシャ人に次ぐ勢力を持つアゼルバイジャン人の生まれです。
 現在のイスラム政権は、それぞれの民族主義を強権政治で抑えて来ました。そして、約38年間も続くハメネイ独裁政権のもとで、反体制的なアラブ人との連携を深めて行きます。
 2023年10月7日にガザ地区を支配するパレスチナ解放運動のハマスが、イスラエルへの激しいテロを起こし、約1200人を惨殺し、250人の人質を取って、現在のガザ地区の荒廃を招きましたが、そのハマスの最大の資金源がハメネイ政権下のイランでした。またレバノン南部を混乱させているヒズボラも今回、イランと連携してイスラエルを攻撃しています。また、アラビア半島南部のイエメンの一部を実効支配するフーシ派も紅海を通る輸送船へのテロ活動を続けていますが、ここもハメネイのイランから援助を受けています。昨年、打倒されたシリアのアサド政権もハメネイのイランによって支えられて来ました。
つまり、イスラエルという国を地上から消し去ろうとすることを宗教的な使命とする集団のトップがハメネイが支配したイランであったのです。まさにテロ支援国家になっていました。
 そのような中で、多くのイラン人クリスチャンもその独裁政権下で苦しんできました。

 以前も書きましたが、1979年のホメイニによるイラン革命は多くの日本人の好意的に受け止められましたが、実態は、各民族の伝統や他宗教の伝統、異なった考え方をイスラム原理主義で支配する強権政治です。当時のドイツに流れて来たイラン人からその独善的な強権政治の実態を聞いています。それが47年も続いてしまいました。反米感情や反イスラエル感情は、イランの伝統的な価値観からしたら一過性制のものかもしれません。イランは確かに多民族国家ですが、その過半数を占めるペルシャ人の健全な民族意識が機能するようになるなら、国の将来は明るいと思われます。それが他の国々とは違う部分かと思います。
 とにかく、今、多くのイラン国民が、また周辺地域の人々が、ホメイニ、ハメネイと続いたイスラム原理主義政権から解放されるようにお祈りしたいと思います。

詩篇118:1–4、19–29「主の恵みはとこしえまで」

 これは113篇から続いていた「エジプトのハレルヤ詩篇」の最後、クライマックスの歌とも言えます。最初と最後で「主 (ヤハウェ) に感謝せよ」と訴えられ、その理由の第一が、「主は……いつくしみ深い」と訳されますが、原文では単に「善い(トーブ)方であるから」としか記されていません。

そして、第二の理由が、「その恵み(ヘセド:不変の愛)はとこしえまで続くから」と記されています。そして、2–4節では「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主 (ヤハウェ) を恐れる者たちよ」「言え」と繰り返されながら、三度にわたって「主の恵み(ヘセド)はとこしえまで続くから」と繰り返されます。

つまり、主に感謝すべき理由は、何よりも、その主がご自身の契約(約束)を永遠に守り続けられることにあり、それこそが「主は善い方である」ということの意味なのです。

 19、20節では「義の門よ 私のために開け……正しい者たちはここから入る」と記されますが、「義」も「正しい者」も原文では同じことばから派生しています。「義の門」とは、神殿の門を指しますが、それは「神の正しさ」を現す「門」であり、文脈から明らかなように、神に信頼し、神にすがる者を歓迎する入り口です。イエスの時代のパリサイ人は、正しい人の代表のように見えましたが、イエスの目には「神様、罪人の私をあわれんでください」と胸をたたいて祈った取税人こそが「正しい人」でした (ルカ18:13、14)。

そして、神の正しさ(義)とは、ご自身の前にへりくだって、日々、主のあわれみにより頼みながら、生きている者を「受け入れ」、決して見捨てないことに現わされています。そこに「主の恵み(ヘセド)」の永遠性が現わされています。

 22、23節の「家を建てる者たちが捨てた石」での「石(エベン)」とはイエスが神の「子(ベン)」であることの比喩で、ご自身が当時の宗教指導者によって捨てられることを指します。しかし、神は、捨てられた「石」である御子を死人の中から復活させ、「神の国」の「要の石」としてくださいました。イエスはこの詩篇のことばを引用しつつ、ご自身を信じない者への厳しいさばきをも預言しておられます (マタイ21:42–44)。

25節の「ああ主 (ヤハウェ) よ」から始まる「どうか救ってください」という祈りは、原文で「ホシアナ」と記され、それが後に「ホサナ!」という賛美の叫びになります。イエスが十字架にかけられる五日前にエルサレムに入城されたとき、人々はこの25、26節のみことばを用いて、イエスをダビデの子としてたたえたのです (マタイ21:8、9)。

「主は私たちに光を与えられた」(27節) という表現は、主の新しい「祝福」の時代の到来を意味します。それは神のご支配(国)が目に見える形で現れることを指します。イエスの時代の人々は、ダビデ王国の再興を待ち望んでいました。それは主がダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束してくださったからです。

しかし、それは今、「イエスを主」と告白する神の民の共同体(教会)として実現し、同時に、そこから発せられる福音が、世界を変え続けています。しかもそれは、神がアブラハムに「地のすべての部族はあなたによって祝福される」(創12:3) と契約を結んだことの成就でもあります。それこそ神の契約の愛(ヘセド)の永遠性の現れです。


【祈り】主よ、あなたの「恵み(ヘセド)」こそが、この世界の歴史を完成へと導いておられることを感謝します。あなたはご自身に信頼する者を守り通し、永遠の祝福へと入れてくださいます。そのあなたの契約の愛にいつでもどこでも信頼させてください。