毎日、米国、イスラエル、イランを巡るニュースから目を離すことができません。
最近、いろんなところでイスラエル、またはユダヤ人に対する批判を聞きます。
大学時代の未信者の友人などは、「イスラエルという国がない方がよいのではないか……」とまで言ってくるほどです。
今回のイランの最高指導者ハメネイ氏の暗殺に関しても、イスラエルの諜報機関が徹底的な諜報活動の結果、ネタニエフ首相がトランプ大統領を説得するような形で、同時攻撃がなされたという構造が明らかになってきています。今、イスラエル軍はレバノンに軍隊を派遣して、ガザで行ったような作戦を始め、多くのレバノンの国民が住まいを失っています。
イスラエルの軍事力はまさに世界最高レベルになっており、それを生かして中東地域全体への支配権を広めていると見え、その野蛮なやり方に、世界中の人々が批判を強めています。
ただ、私たちはそのような中で、少し、イスラエルの事情も優しく見る必要があるかと思います。
残念ながらユダヤ人はキリスト教文化圏の中で、恐ろしい迫害を受け続けて来ました。その結果が、ナチス・ドイツのホロコーストです。
彼らは世界のどこにも安住の地がないということで、イスラエル建国を自分たちの夢としてきました。
第二次大戦後のイスラエルの建国を導いてきた方々は、パレスティナの方々との共存をとっても大切にしてきました。
国連もユダヤ人とパレスティナ人との共存を大切にしてきました。
しかし、イスラエル建国と同時に、周辺のアラブ諸国が総攻撃に出て来ました。ユダヤ人たちは二千年来の夢を無にしないように、必死に国を守り続けて来ました。
その結果、今、多くのアラブ諸国が、イスラエルとの共存を認めざるを得なくなってきています。
ただそのような中で、イランの最高指導者ハメネイとその仲間たちは、アラブ諸国の中に、反イスラエルのテロ組織を広げ続けてきました。
2023年10月7日のハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃は、ハメネイの支援がなければできないものでした。また彼らはレバノンのヒズボラという、レバノンを分断するテロ組織を応援し続けて来ました。また紅海の入り口でテロ活動を続けるフーシ派も、ハメネイの支援によってイエメンに混乱を起こしています。
昨年、ようやくシリアのアサド政権が崩壊しましたが、その暴力政権をどこよりも応援してきたのがハメネイが支配するイランの革命防衛隊です。また、現在のロシアはウクライナの人々をドローンで徹底的に苦しめていますが、その最大のドローン供給先がイランでした。今、イラン製のドローン攻撃に震える国々が、ウクライナに協力を求めるような事態さえ生まれてきています。
ただ、ハメネイ政権がどれほど邪悪であっても、それを米軍が圧倒的な軍事力で滅ぼすことが正しいとは、言ってはならないと思います。
ただ、イスラエルとその中心にいるユダヤ人の歴史を見るときに、彼らがハメネイ支配のイランにどれほど苦しめられてきたかということにも共感をする必要があると思われます。
彼らが抱く国防意識は、島国の日本人にはとうてい理解しがたいものです。
何よりの問題は、そこにそれぞれの宗教的な信念が絡まって来ることです。
米国の保守的な信仰者の中にはイスラエルの建国を聖書の預言の成就と理解する人々がかなり多くいます。最近はそれが減って来てはいますが、まだ大きな影響力を持っています。
一方、ハメネイを中心とした勢力も、イスラエルをあの地から追い出すことが、神のみこころであると固く信じています。
しかし、神が全能であると本当に信じているなら、そのような人間の武力を使わなくても、神は平和を実現してくださると信じるのが、イエス・キリストの福音の核心ではないでしょうか。
もちろん神は、私たちが自分の身を守る戦いをすることを認めておられるとは思います。
しかし、武力によって脅威となりそうな国を排除するというような教えは、聖書の発想ではありません。
以下の詩篇119篇は 聖書のみことばが何のために与えられているかを明らかにする最高の詩です。
詩篇119篇1–8、69–72、89–92「みことばに生かされる」
詩篇119篇は、176行からなる聖書で最も長い詩で、驚くほど精巧にヘブル語の22のアルファベットが8節ずつの冒頭に順番に配置されています。たとえば、1–8節の冒頭には8回に渡ってアレフという文字が、9–16節の冒頭には8回に渡ってベートという文字が登場します。作者は不明ですが、バビロン帝国によってエルサレム神殿が滅ぼされたことを振り返りながら、それを神との契約を破ったことへのさばきとして理解し、主のみことばを守ることの大切さをヘブル人に訴えるために記されたのでしょう。
全体を通して、「主のことば」が、「みおしえ」「さとし」「戒め」「おきて」「仰せ」「さばき」「みことば」などと様々なことばで現わされますが、明確な意味の区別がつけられない面があります。
日本語の「戒め」や「おきて」には、人を委縮させるようなニュアンスがありますが、本来は、すべて人の心を生かすための、神の愛に満ちた「指導」や「規範」とも理解できます。たとえば最初に「幸いなことよ……主 (ヤハウェ) のみおしえに歩む人々」と記されますが、ここでの「みおしえ」はヘブル語の「トーラー」の訳で、新約では「律法」と訳されることばです。
しばしば、主がモーセを通して与えられた「律法」に関して、「神は、人間には守ることができないと分かっていた法律のようなものを与えて、それを守れなかったからといって、人間に厳しいさばきを下した」と解釈されることがあります。しかし、「律法」の基本は、人を真の意味で生かすための「みおしえ」であり、それを守らないことは、自分で自分を破滅に追いやっているだけなのです。神の「さばき」とは、それを「見守る」こととも言えます。
70、71節の「私はあなたのみおしえを喜んでいます。苦しみにあったことは 私にとって幸せでした」とのみことばは、群馬県の「富弘美術館」の入り口の「土の中の豆」という題のモニュメントに記されています。星野富弘さんは念願の体育教師になって間もなく、事故で手足の自由を完全に失います。
その後、「土の中」のような暗い生活を送りますが、その「豆」はいのちに満ちていました。やがて、主のみことばが彼を生かし、彼が口に筆を加えて描いた詩画は世界中の人々に生きる力を与えます。
彼は身動きができなくなったおかげで、主のことばに生かされる体験ができました。それは、すべてが満たされた「脂肪のように鈍感」な「心」(70節) では起き得なかったことです。
私たちも、傷つくことで、主の「おきて(みことば)」のすばらしさに目覚めるのです。
89–91節では、主の「みことば」(ギリシャ語七十人訳では「ロゴス」)が「天において定まっている」ので「地」が「据えられ」、この地は主の「定め(さばき、主のことばの一表現)にしたがって堅く立っている」と記されています。そして、その世界を創造し、保っている「ことば(ロゴス)」が今、「人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14) と記されます。
そしてイエスの「みおしえ」は、私を「苦しみの中で滅」びることのないように守ってくれています (92節)。聖霊の導きの中で、「みおしえ(トーラー、律法)は、私を恐怖に陥れ、奴隷にするものではなく、「私の喜び」であり、「神の子」として生かされる自由を生み出す、神の賜物なのです (ローマ8:14、15参照)。
【祈り】神の「ことば」である方が、私たちの悩み、苦しみを、ともに担ってくださることを感謝します。私の心が「脂肪のように鈍感」にならないように、私に適度な苦しみを与え、主のみことばによって生かされる自由を味わう者とさせてください。

