詩篇120篇〜イランでクリスチャンが急増

イラン、レバノン、イスラエルの状況から目を離すことができません。
米国とイスラエルによるイランに対する攻撃を正当化するクリスチャンを日本で見出すことはほとんどできないと思います。そのような国に住んでいられることは感謝なことです。
私自身もイランの最高指導者ハメネイ氏の支配を激しく嫌悪しながらも、あの暗殺とその後のイランに対する激しい攻撃に心を痛めており、その軍事作戦を擁護するつもりは毛頭ありません。
本当にあの地に一瞬でも早く平和が実現してほしいと心から願いつつ、お祈りしております。

 ただ、同時に、イランへの攻撃を、神の救いの御業と喜んでいる多くのイラン人クリスチャンがいることも私たちは忘れてはなりません。
1979年のイスラム革命以来、イランはアラーへの信仰を第一とした神聖国家体制を作りました。
国民が選ぶ大統領ではなく、イスラム指導者たちが選ぶ宗教指導者が、国の最高指導者として崇められ、そのもとにある革命防衛隊が軍事も警察権ばかりか経済までも牛耳っています。
 彼らは国民すべてにイスラム的な生き方を強制して来ました。女性は頭にかぶり物をつけることばかりか、服装や振る舞いのすべてが、拘束の理由となります。
そのような中で、イラン人の中にキリスト教信仰への回心者が急増しているという現実があります。
でイランで非合法とされる地下教会の礼拝のようすや成長のことをご覧いただけます

 また、以下で Samaさんというイラン人女性の証しをご覧いただけます。分かりやすい英語ですので、ご覧いただければ幸いです。
彼女のお父様は、イラン革命後にイエスを救い主とする信仰に導かれ、何度も捕らえられながら地下教会を導いて来ましたが、2016年についに、イランでの宣教活動を諦めざるを得なくなり、トルコ経由で米国に亡命をしました。そして Samaさんが The Modern Exodus(現代の出エジプト記)という本を書き、今回、米国のテレビ番組で されました。

彼女は、イランの多くの人々がどれほど苦しめられているかを語り、箴言31章8節の以下のことばを引用して、祈りを訴えています
「口のきけない人のために、口を開きなさい。すべての不幸な人の訴えのために」
 イランでは、クリスチャン信仰を告白すると「シオニスト(ユダヤ人の約束の地への帰還を悲願とする運動)」と呼ばれるそうです。
イランのイスラム教指導者は、あのパレスティナと呼ばれる地からイスラエルという国を消し去ることを悲願としているからです。
彼女は、かつて紀元前六世紀にペルシャ帝国のキュロス大王が、ユダヤ人のエルサム帰還と神殿建設を応援したというストーリーを引用しながら、イラン国民とユダヤ人は、本来、強い絆で結ばれていると語ります

 今、イラン国内で多くの人々がキリスト教への回心をしていると同時に、世界中に散らされたイラン人クリスチャンがイランの体制変革を、主に求めて祈っています。
以下は、イラン攻撃の翌日に、どこかの海外の地でイラン人クリスチャンが主を賛美し、祈っている姿です
僕は、このような を友人から紹介されて初めて、多くのイラン人クリスチャンの祈りの世界に目が開かれました

以下は詩篇120篇の要約ですが、これこそまさにイランに住むクリスチャンの気持ちになると意味がよく理解できます。

詩篇120篇1–7節「平和を憎む者に囲まれて」

詩篇120篇から134篇には「都上りの歌」という標題があり、一組の詩篇として歌われてきました。それらは異教世界に離散して住んでいる神の民がエルサレム神殿への巡礼の旅の際に用いられたのだと思われます。

私たち異邦人に対しても預言者イザヤは、「終わりの日に……多くの民族が来て言う。『さあ、主 (ヤハウェ) の山、ヤコブの神に家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主 (ヤハウェ) のことばが出るからだ……さあ、私たちの主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」(2:2–5) と語っています。

それは私たちにとって、弱肉強食の競争社会の中でうめきながら、天の「新しいエルサレム」が地に下ってくることを待ち望みつつ、主の日の礼拝に上って行くことにも適用できましょう。

最初の文は、「主 (ヤハウェ) に向かって、私の苦しみの中で叫ぶ、主が答えてくださるようにと」と訳すこともできます。続く文書も原文の語順では、「主 (ヤハウェ) よ 救い出してください 私のたましいを 偽りの唇 欺き舌から」(2節) と記されています。

著者は、「平気でうそをつく人たち」に取り囲まれながら、そこから「救い出される」ことを必死に願っています。これはたとえば、どこにスパイが潜んでいるか分からない独裁国家で生きざるを得ない不安にも似ています。現在の日本でも、「正直に自分の気持ちを言うと、とんでもない非難を受けそうで、本音が言えない……」という恐れの中で生きる場合があることでしょう。そのような場から救い出されることを願った祈りです。

そのような中で、「欺きの舌」に対し、「おまえに何が与えられ おまえに何が加えられるだろうか。勇士の鋭い矢 そして えにしだの炭火だ」と、神のさばきが宣言されます (3、4節)。これは「死の武器」としての「燃える火矢」によって「欺き」や偽り」が一掃されることを願ったものですが (7:13参照)、そこに神の平和が始まります。

さらに著者は、「ああ 嘆かわしいこの身よ メシェクに寄留し ケダルの天幕に身を寄せるとは」(5節) と自分が置かれた状況を嘆いています。メシェクとは現在のトルコの東北部、ケダルとはアラビア砂漠に住む遊牧民で、両者とも争いを好む民族の代名詞的な意味がありました。

そのことが「この身は 平和を憎む者とともにあって久しい」(6節) という嘆きとして表現され、そこで起こる悲惨が、「私が 平和をーと語りかければ 彼らは戦いを求めるのだ」(7節) と記されます。「平和」とはヘブル語のシャロームの訳で、それは戦いがないこと以上に、すべてが整って欠けがない神の国の完成の状態を指します。

それは、私たちが創造主のもとにある世界の完成への憧れを表現すると、「何をとぼけたことを言っているのか。そんな理想ばかりを言って、生きて行けると思っているのか」と、論争を仕掛けられる葛藤に似ているとも言えましょう。

ヘブル書では信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(11:13) と描かれています。私たちもこの異教社会の中で、キリストの苦難を味わいながら生きますが、神はシャロームの完成の世界へと導いてくださいます。


【祈り】主よ、私たちは真の平和(シャーロム)に渇いています。理想からほど遠い弱肉強食の競争社会の中で、それに同調しないこの地の寄留者としての歩み、また、「新しいエルサレム」に向かう巡礼者としての歩みを、私に全うさせてください。