詩篇123篇〜フーストン先生の召天

今週の初め3月15日に、霊性の神学のパイオニアとして世界的に尊敬されていたジェームス・フーストン先生が103歳で天に召されました。彼は今や世界的に注目されている神学校カナダ・バンクーバーにあるリージェント・カレッジの創立学長でした。1969年に英国オックスフォード大学教授としての安定的な地位を捨てて、北米の地に実生活に根差した神学校を始めたいという熱い思いに駆り立てられてバンクーバーに移住しました。J.I.パッカーなどの世界的に有名な神学者も、彼に誘われてこの神学校で教えるようになりました。

僕はこの教会が独立運営に移った1997年の7月に友人の紹介でフーストン先生に会いに行きました。その授業では、先生が僕一人の眼差しを身ながら熱く語ってくださるような感動を覚えました。二週間近い滞在期間の中で、三回に渡る個人カウンセリングをしていただきました。そのころ僕は、自分の祈りの生活の貧しさに悩んでいました。僕の悩みを聞いた先生は、たった一言、「それなら、祈るのをやめたらよいのでは」と逆説的なことを語ってくださいました。すると、僕の心の中に、「僕の心の中には祈りたくてたまらない自分がいる」ということに気づかされました。彼は僕が自分の祈りの貧しさに悩んで、バンクーバーまで飛んできたこと自体を喜んでくださいました。そして僕の帰国の際には、わざわざご自分の車で奥様のリタさんとともに僕を空港までお送りくださり、熱い抱擁をしてくださいました。

それから二年後の1999年10月17日には、当教会の礼拝でヨブ記からのメッセージをしてくださり、午後は豊かなセミナーを導いてくださいました。当教会のその後の成長の礎となった機会になったかと思われます。

2017年には「キリストのうちにある生活―日本と欧米の対話の向こうに」という日本文化を高く評価した先生の貴重なご本の翻訳監修に携わらせていただきました。あまりにも多くの馴染みのない哲学的な文献が簡潔に引用されているので、それらの原典に何度も立ち返りながら、フーストン先生とメールのやり取りをさせていただいたことを思い起こさせられます。それは先生との対話の貴重な体験ともなりました。アマゾンで をすぐにご購入いただけます。

 フーストン先生は一人ひとりとのパーソナルな関係を何よりも大切にされました。目の前の一人の事情をユニークな体験として受け止め、その人の心の葛藤をまるで自分のことのように理解しようとする熱い共感力がありました。その姿勢は今も、僕が一人ひとりの相談の乗るときの模範となっています。最近上映されたミュージカル「ウィッキド」(原作はオズの魔法使い)で最後に歌われる For Good: Because I knew You という曲があります。

 私たちの人生は常に人との出会いで変えられます。「あなたを知ったから、私はよい方向へと変えられました」という歌は永遠の真理と言えます。フーストン先生は僕を友として接することで僕の人生は変えられました。そしてそれは天地万物の創造主が私一人に目を留めていてくださるという感動に結びつきます。フーストン先生は、祈りの本を、The Transforming Friendship(人生を変革する友情)というタイトルで記しました。その鍵は詩篇123篇にも見られます。

詩篇123篇「天の御座に着いておられる主」

この詩篇の時代背景は不明ですが、中心テーマは明らかです。それは主を礼拝する者たちがこの世の「安逸を貪る者たちの嘲りと 高ぶる者たちの蔑み」(4節) をいっぱいに受けるという中で「天の御座に着いておられる」主 (ヤハウェ) に助けを求めるということです (1節)。

先の122篇ではエルサレムが「一つによくまとまった都として建てられている」こと (3節)、また「ダビデの家の王座」が「城壁の内に」あることを想定していましたが (5、7節)、ここでは同じ「都上りの歌」であっても、栄光に輝くエルサレム神殿を目指して上っている希望に満ちた巡礼者とは対照的な悲惨な姿が思い浮かべられます。

 エルサレム神殿がバビロン帝国の軍隊によって破壊されたのは紀元前586年ですが、それから約50年後の紀元前538年、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国の王キュロスは、捕囚とされていたユダヤ人たちにエルサレムへの帰還と、神殿の再建を命じます (エズラ1章)。

ところがそれから間もなく神殿再建工事はエルサレム周囲の民族の激しい反対で、約15年間にわたって中断されます (エズラ4:1–5)。しかし、主が預言者を用いてエルサレムの人々を励ますとともに、ペルシャの王ダレイオスの心を動かし、紀元前516年に神殿は再建されました。

ただそれはソロモンの神殿とは比較にならないほど小さく惨めな建物で、主の契約の箱もそこにはありませんでした。それは「主の家」と呼べるようなものではありませんでした。まさに主は「天の御座」にしかおられないように見えました。

しかし、この再建はエルサレム陥落の70年後で、そこに主がエレミヤを通して「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み……あなたがたをこの地に帰らせる……あなたがたのために立てている計画は……あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」 (エレミヤ29:10、11) と言われたことの成就の一環とも見ることができました。

しかし、さらに約70年後の紀元前445年に、ペルシャの首都に留まっていたネヘミヤは、エルサレムの住民がなお「大きな困難と恥辱の中にあり」、そればかりか「エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたまま」であると聞きます (ネヘミヤ1:3)。

その後、彼は城壁を再建できましたが、その感謝の祈りを主にささげながらもなお、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。私たちが実りと良い食べ物を食べられるようにとあなたがた先祖たちに与えてくださった、この地で、ご覧ください。私たちは奴隷です」(同9:36) と祈ります。つまり、捕囚の70年後に神殿が再建され、さらにその70年後にエルサレム城壁が再建されても、苦難は続いていたのです。

ネヘミヤが「私たちは今、奴隷です」と告白せざるを得なかった現実を想定して、この詩篇を味わうと、この祈りが心に迫ってきます。多くの日本人も今、職場で上司の顔色を伺いながら「しもべ」のように生きているのではないでしょうか。当時のユダヤ人と同じように、「一難去ってまた一難……」という現実があります。そこでは、「主人の手」がどこに向けられるかを敏感に察知し、上司の気持ちを忖度する必要があるかもしれません。

しかし、横暴な上司さえも、天の御座に着いておられる方のみこころのままに動かされているのです。あなたの職場の真の支配者は、主ご自身です。主はあなたが蔑まれ、嘲られているのを、ただ見過ごしておられるのではありません。祈りは聞かれています。

【祈り】主よ、「存在している権威はすべて、神によって立てられている」(ローマ13:1) という、天の神の支配を、いつでもどこでも認めさせてください。上司の顔色を見るのではなく、天の主が何を望んでおられるかを知り、それを実行できますように。