新年明けましておめでとうございます。
この数十年、年の初めは、紅白歌合戦で心に残った曲の問いかけから始めています。
今年はRadwimpsの「正解」という曲の以下の歌詞が心に刺さりました
あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ そのせいだろうか
僕たちが知りたかったのは いつも正解など大人も知らない
喜びが溢れて止まらない 夜の眠り方
悔しさで滲んだ 心の傷の治し方
傷ついた友の 励まし方
最近の高校の卒業式では、この曲が一番人気で歌われているようです。
「仰げば尊しわが師の恩」という歌った世代としては、この変化にとっても感心します。
偏差値で人の能力を計る必要から、「答えがある問いばかりを 教わって」、心が貧しくなってしまった人が多いような気がします。
僕自身も、ずっとそれこそが生産的な勉強だと思って、頑張りながら、あまり良い点を取れずに悩んできました(実際、数学や英語がまったくついて行けませんでした)。
僕は高校生の頃から「哲学」の学びに興味を抱いていました。
しかし、大学の教養課程で、哲学教授を訪ねて、「ある意味で答えのないような学びを続けることにどのような意味があるのでしょう」と尋ねました。
満足できる答えを聞けなかったと思うまま、国際金融の世界に十年間、身をささげました。毎週のように変わる経済見通しのシナリオにがっかりして、数千年来変わらない聖書の学びと宣教の世界に転身しました。
しかし、ここでも正解の見えない問いかけを続けています。
すると、今朝、神学校時代に教わった教師から、「美しく問う」という記事をいただき、何か、五十年余り前の僕の問いが、ようやく返って来た気がしました。
哲学用語で「アポリア」という概念があります。それは互いに矛盾する答えしかでないように思える、答えが行き詰まりと見える難問を指します。
僕は昔から、政治にしても、キリスト教倫理と言えるような世界でも、明確な答えを提示する人を、正直、信頼できませんでした。もっと多面的に問題を見て欲しい、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という矛盾を真正面から見て欲しいと思うからです。
今朝、改めて教えられたのは、「困難を乗り越えようと欲する者にとっては美しくアポリアを提示することが有益である……」というアリストテレスのことばです。
本当に目の前の問題に真剣に、しかも多面的な角度から向き合うとき、確かに、偽りの問いと答えの矛盾が見えるとともに、そこから不思議なように、新しい方向が見えて来るという体験を何度も重ねてきました。
実は、哲学でも神学でも、「美しく問う」ということが何よりも大切なのかと思わされました。それこそが、学びの原点です。それは多くの場合、社会的に評価されるようなものではなくても、自分の人生にとってはかけがえのない答えとなってきます。
詩篇101篇はとっても不思議です。「罪人の頭」のようなダビデが、自分の心の神への真っ直ぐさを歌っているように見えるからです。それに対しても「美しく問う」という姿勢から、不思議な世界が見えて来ます。
詩篇101篇「全き道に心を留めます」
この詩は、ダビデがどのような思いで、イスラエルを主の民として治めようとしていたかを告白したもので、キリストの教会の現実にも適用できます。
それにしてもダビデが、「私は家の中を 全き心で行き来します。私は 目の前に卑しいことを置きません。私は 曲がったわざを憎み それが私に まといつくことはありません」(3節) と書くのを見て、「どの面下げて、これを書けたのだろう」と思う人もいることでしょう。ダビデは自分の家来の妻を横取りし、彼を死に至らしめたからです。
しかもその後、長男アムノンが異母妹のタマルを強姦し、その兄アブサロムが彼に復讐を果たし、最後にはアブサロムがダビデをエルサレムから追い出します。ダビデはその間、何もできませんでした。
後にパウロは、教会の指導者を選ぶ基準として「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか」(Ⅰテモテ3:5) と記しましたが、ダビデこそ子育ての失敗の見本のような存在です。
その彼が、どうして、「欺きを行う者は 私の家の中に住むことはなく 偽りを語る者は 私の目の前に 堅く立つことはありません」(7節) などと書けたのでしょう。
しかし、ダビデは自分の生涯を振り返るように詩篇18篇を残していますが (Ⅱサムエル22章で引用)、そこでも彼は、「私は主の前に全き者……主は 私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前の この手のきよさにしたがって」(23、24節) と告白しています。
ときに、「義に満ちた神は、どんな小さな罪をも見逃すことはできない」などと解釈する人がいるかもしれませんが、それはダビデが信頼した神ではありません。
ダビデが姦淫の罪の後で、「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心」(詩篇51:17) と告白したように、神の前に「全き者」とは、過ちを犯さないというよりは、神の目に自分の心の闇をさらけ出す生き方ではないでしょうか。
しかも、それでいて、自分の弱さや罪深さに居直ることなく、「私は 全き道に目を留めます……私は悪を知ろうともしません」(2、4節) と告白して、常に、神が喜ばれる生き方を全うしようと成長し続ける生き方なのです。
また、「陰で自分の隣人をそしる者」を「沈黙させ」(5節私訳)、「高ぶる目とおごる心」から距離を取り、悪の広がりを防ぐ生き方でもあります。
そして、自分の周りに不条理を見ながらも、自分の「目」を「忠実な人たちに注ぎ」「全き道を歩む者」との交わりを大切にします (6節)。
「神の義」とはご自身に信頼しようとする者を決して裏切らないという「正義」です。私たちに求められているのは、何度失敗しても、そのたびに神に立ち返り、神が喜ばれる生き方を全うしたいと願い、すがり続けることです。
そこに聖霊のみわざが現わされます。ダビデの罪の後の詩篇51篇10–12節に旧約で最も明確な聖霊のみわざが記されていることは偶然ではありません。
8節では、「悪しき者」「不法を行う者」を「滅ぼし」「断ち切る」と宣言されますが、ダビデは野蛮な将軍ヨアブのさばきを主にゆだね、彼を身近に置き続けました。彼は何よりも主の「恵みとさばきを」歌う中で (1節)、自分の性急な判断を控えていたのです。
【祈り】主よ、私たちは自分を振り返るとき「私は 全き道に心を留めます」と言えない自分を発見します。
しかし、どうか、私たちの弱った気持ちにも寄り添い、ご自身の聖霊を遣わし、私たちが完全を目指す気持ちを励まし、力づけてくださいますように。

