詩篇114〜りくりゅうペアー金メダル

 今日の日本の最大の喜びはミラノ・コルチナ・オリンピック・スケート競技での三浦璃来、木原龍一ペアーの金メダル獲得かと思います。
 昨日のショートプログラムのミスで、木原さんは泣き崩れていました。それを三浦さんが慰めていました。今日も演技の後、三浦さんがまるで母親のように木原さんの頭を抱擁している姿が印象的でした。
三浦さんを高く持ち上げ、飛ばす力強さと、みんなの前で泣き崩れ、慰められる姿にとっても共感を覚えました。
まだの方は でご覧いただけます。
 
 僕が興味深く覚えたのは、この二人が演技のために選んでいる曲です。
一つは、ローリングストーンズ原曲の「黒く塗れ (paint it black) 」、金メダルの際の演技曲は グラディエーター(ローマ帝国時代の剣闘士に落とされた奴隷の物語)です。
二つの曲に共通するテーマは「怒り」のエネルギーです。
 一見華やかに見えるフィギュアスケートの演技のためにこのような曲をなぜ選ぶのかと不思議に思いました。

 しかし、僕も自分自身の歩みを振り返りながら、ふと思いました。
僕を突き動かすエネルギーの中にも「怒り」があると思いました。
何か自分の意に反することが起こると、僕は怒りが制御できなくなることがあります。それは敏感気質と呼ばれます。
怒りの底には何とも言えない不安があります。
幸い僕の周りには妻を含め、怒りを宥め、慰めてくれる人がいるので、今まで生きて来ることができました。
 改めて今回のスケート競技を通して、怒りの中に住む創造的なエネルギーを感じせられました。
怒りには確かに破壊的な力があります。しかし、自分の内側にある怒りをすなおに認め、それを涙として表現するなら、そこから希望が生まれます。

 聖書の神は偶像礼拝という浮気を「ねたみ」、「怒りを燃やす」方として描かれます。
その神がご自身の怒りを鎮める方法として、ご自身の怒りを「宥める」儀式が生まれました。
それがレビ記のいけにえの規定です。
 でもそこにある最大のテーマは、聖なる神が汚れた民の真ん中に住んで、民を平和(シャローム)に満ちた世界に導くというストーリーです。
実は、「怒り」と「愛」は共存する感情なのです。
僕自身も自分の歩みを振り返って、「怒り」の背後に、ささやかな「愛」があることを覚えることができます。
それは不当な扱いを受ける人に対する愛であり、そのような状況を許す、この世の組織に対する怒りであったりします。でもそれが愛の共同体としてのキリスト教会を建て上げるために何らかの働きをしたいという情熱として現わされます。

 全能の聖なる神がイスラエルの真ん中に住んでくださることの意味が詩114篇に表現されます。

詩篇114篇1–8節「神の聖所、神の領地」

ユダヤ人の伝統では、113篇と114篇はセットとして読まれたようですが、この114篇には主 (ヤハウェ) の御名が登場しません。それは、ここでは主の偉大さが、目に見えるイスラエルという小さな民族を通して現わされているからとも言えましょう。異邦の民は彼らを見て「このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」(申命記4:7) と感心し、その神がどのような方かを知ろうとするはずでした。また、イスラエルは全世界の人々を創造主のもとに導く「祭司の王国」(出ジプト19:6) となるはずでした。

 1節の原文では、「出てきたとき イスラエルがエジプトから ヤコブの家が 理解できない言語の民のうちから」と記されています。新改訳で「異なる民」と訳されていることばは、「未知の原語の民」とも訳せることばで、預言者エレミヤはバビロン帝国を「それは古くからある国……その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国」と表現しました (5:15)。つまり、ここでは出エジプトのことと並行して、バビロン捕囚からの解放の希望を「新しい出エジプト」として描いていると言えましょう。 

 2節で「ユダは神の聖所となり」とユダ民族だけが描かれるのは、バビロンに捕囚とされた民のほとんどがユダ部族だったからです。それにしても、ユダが神にとっての「聖なる場」と呼ばれ、イスラエルが「神の領地」または「神の所有の地」と呼ばれるのは不思議です。それは民の交わりの真ん中に創造主ご自身が住んでくださることを意味します。そして新約では、何と、異邦人中心の教会の交わりを指して、「あなたがたは……聖なる国民、神のものとされた民」(Ⅰペテロ2:9) と呼ばれるようになります。

そして神の栄光は、イスラエルの民の歩み自体を通して現わされました。イスラエルがモーセに導かれて紅海に向かうと、「海は見て逃げ去り」と描かれ、彼らがヨシュアに導かれてエリコに向かうと「ヨルダン川は引き返した」と描かれます (3節)。そして続けて「山々は跳ね回った、雄羊のように、丘は子羊のように」(4節私訳) と記されています。これは約束の地の山々や数々の丘が、イスラエルの民が入って来るのを喜び迎えている様子を表していると解釈すべきでしょう。そこではイスラエルの民が、神のさばきを受けて、約束の地から追放されたという現実との対比が思い起こされています。

5、6節は、「おまえたちは、どうしたというのか」という問いかけから始まり、3、4節で描かれた、海やヨルダン川、山々や丘の行動の理由が問われています。それは、「神がイスラエルの真ん中に住んでおられたから……」という答えを示唆します。

そして7、8節では「主である方の御前に 地よ おののけ(もだえよ)。ヤコブの神であられる方の御前に。その方は 変えられた、岩を水の潤う沢に、硬い岩を 水のあふれる泉に」(私訳) と記されます。これは、かつてイスラエルの民を歓迎し喜んでいた約束の地に対して、イスラエルの民の不在の前におののき、悶えるようにという訴えです。それは、神が約束の地を、イスラエルの民のために潤してくださったという歴史を思い起こすからです。神の栄光はご自身の民を通して現わされました。そして私たちも今、創造主の「聖所」、「領地」とされています。そこに明日への希望が生まれます。


【祈り】主よ、あなたが私たちを「聖なる国民、神のもとのされた民」と呼んでくださることを感謝します。あなたは人の目には見えませんが、私たちを通してご自身の偉大さを現してくださると教えられました。その恵みを今、ここで体験させてください。