私は信仰に導かれたころ「あなたがたは聖なる者でなければならない」と聞いて、恐れを抱くと同時に、それがこの世からの「分離」を意味するという面ばかりを聞いて、つまずきを覚えました。この矛盾に満ちた社会で真の意味で生かされることを目標に勉強をしてきたつりだったからです。
しかも、僕が10年間勤めていたのは証券会社で、資本主義のごみ溜めと揶揄されるような俗的な世界でした。しかしレビ記の文脈からその意味を知ったときに、この世の評価を超えた大胆な生き方ができる鍵が記されていると安心できるようになりました。
しかも、ここには「休む」ことの大切さと、私たちが味わう「恐怖心」の背後に、私たちを真の意味で生かそうとする神の熱い愛の招きがあると分かり嬉しくなりました。一見、私たちを束縛するように見えることばの羅列に、この世界と私たちを真の意味で生かすための神の知恵が記されています。
1.「それらを行なうなら……生きる……隣人をあなた自身のように愛しなさい」
18章、19章には「わたしはあなたがたの神、主 (ヤハウェ) である」という表現が十回登場し、様々な規定は「十のことば」の具体的な適用とも考えられます。その最初に、エジプトやカナンの「地の風習をまねてはならない」(18:3) と記されます。
18章4、5節では主の「定めを行い」と「掟を守る」ことが命じられながら、「人がそれらを行うなら、それらによって生きる」と約束されます。それは長生き以上に、神から与えられた「いのち」を心から喜び楽しむことができるという意味です。
実際に、律法の専門家がイエスを試みようと、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたとき、反対にイエスは彼の答えを求めましたが、彼は全身全霊で主を愛することと並んで、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とのみことばをレビ記19章18節から引用しました。
それに対しイエスは「あなたの答えは正しい」と言うと同時に、この18章5節のことばを引用して「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました (ルカ10:25–28)。つまり、このレビ記18、19章は、イエスによる十のことばの解釈の核心なのです。
18章6–20節では近親者との性的な交わりを初めとする性的な罪が指摘されます。そして21節では、自分の子どもを「火の中を通らせて、モレクに渡してはならない」と命じられますが、これは当時の最も忌まわしい偶像礼拝です。それに続いて、「あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである」と、ホモ・セックスが明確に禁じられています。
それに続いて「動物と寝」ることが「道ならぬこと」として戒められます。20章11–14節でもホモ・セックスが、誰に目にも忌み嫌われる悪習の文脈で挟まれて記され、そこでは「彼らは必ず殺されなければならない」と命じられます。
そして、18章24、25節では、それこそが、神がカナンに住んでいた住民に関して、「その地はそこに住む者を吐き出す」という聖絶の理由として記されます。
確かにこれらの規定は、イスラエルの民を異教の悪習から守るための一時的なもので、そこにある死刑のさばき同様、適用の仕方には注意が求められます。しかも最近になって、生まれつき同性にしか恋愛心を抱くことができない人がいることが証明されて来ています。
ただし、聖書が性道徳に関して当時も今も、時代の風習に流されることを戒めている理由を考える必要もありましょう。
19章2節はレビ記の核心です。原文ではまず「あなたがたは聖なる者でなければならない」と命じられます。人は、「聖さ」を様々に解釈しますが、それは18、19章全体から理解されるべきです。
そしてその命令の根拠が「わたしは聖であるから」と述べられ「(わたしは)あなたがたの神、主 (ヤハウェ) である」と付け加えられます。
これをもとにペテロの手紙でも「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」(Ⅰペテロ1:15) と厳しく命じられますが、引用の文脈が大切です。
そこでは何よりも彼らは神から特別に愛され、選ばれているからこそ神のご性質に似るべきだと記されています。これをパウロは「愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」(エペソ5:1) と表現しました。
19章全体で「十のことば」が言い換えられますが、その最初が「自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない」(3節) です。父権社会の中で、敢えて「母」が先にされます。それと「安息日を守る」がセットなのは、安息日は毎週、母の準備で始まり、何よりも家族を互いに喜ぶ祭りだからでしょう。
19章には、40回も「……してはならない」と、繰り返されますが、その大半が人と人との関係です。その最初が「畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない」(19:9) で、社会的弱者に自分の手で働くスペースを残すことでした。
興味深いことに、13、14節では、賃金の支払いを遅らすことや、耳の聞こえない者を侮ることに至るまで、事細かに人格を尊重することが命じられます。
また、15節では「不正な裁判をしてはならない」という命令で、まず「弱い者をひいきしたり強い者にへつらったりしてはならない」と記されます。弱者を特別扱いし過ぎることは、その人の責任能力を蔑むという人格の軽視と表裏一体だからです。「人を中傷」することも同じ問題です (19:16)。
それらを肯定命令でまとめたのが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主 (ヤハウェ) である」(19:18) です。
興味深いのはこれが「心の中で自分の兄弟を憎んではならない……復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない」とセットで記されることです。この文脈では「隣人」の範囲は、同胞に限られる?とも思えます。
また「あなた自身のように愛しなさい」とは「自分を愛することが大前提!」というより、自分が同じ所に住む仲間として尊重されることを心の底から願っているからこそ隣人を尊重するようにとの勧めです。
ですから隣人の責任能力を認めないで、バカにするような気持ちで助けることは隣人愛ではありません。事実、今までの箇所で自分の身を「日雇い人」「耳の聞こえない者」「目の見えない者」「弱い人」「中傷される人」の立場に置いて読むと黄金律がより身近に感じられます。
ただし34節では、「隣人」の対象を、「あなたがたとともにいる寄留者」にまで広げた上で、「自分自身のように愛さなければならない」と命じられます。
イエスの時代の律法学者が自分の隣人を身近な範囲に限定しようとしたのは、18節だけを読むと根拠がありますが、それに対してイエスは、34節を含む19章全体の文脈から隣人愛を考えるように教え、そのために「善きサマリヤ人のたとえ」を話され、「隣人になる」ことを教えられました (ルカ10:25–37)。
33節からは寄留者を愛することが命じられますが、「自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない」(34節) と、この地の概念で説明されます。
「聖さ」は確かに「この世からの分離」から始まりますが、「わたしは聖であるから」と言われる方はこの世の慣わしを超越した形で「あなたの隣人を」また「寄留者を」、「あなた自身のように愛しなさい」と命じておられました。
そこには、世の常識を超えた神の「聖」の基準を、神の聖霊の力で大胆に生きられるという約束があります。
2.「安息の年」と「ヨベルの年」
25章2節は「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき」から始まり、特に「わたしが与える」が強調されます。
中心命令は「その地は主 (ヤハウェ) の安息を守らなければならない」です。それは六年間は種を蒔き、収穫しても「七年目は地の全き休みの安息」として、「畑に種を蒔いたり……落ち穂から生えたもの」さえも「刈り入れてはならない」と命じられました (25:4、5)。
さらに「地の安息はあなたがたに食物をもたらす」(25:6) と約束されます。それは、その年に生産活動を一切休んでも、奴隷にも雇い人にも居留者のためにも家畜にも、食べ物の必要が満たされるという意味です。
「サバティカル」という英語があり、欧米の大学教授や牧師などは七年に一度の特別休暇が与えられますが、その起源がここにあります。
一年間土地を休ませるとその後の生産力が回復され、教師や牧師を休ませると、新鮮なインスピレーションが生まれます。それにしてもその間をどのようにつなぐのかが課題になります。
これは飢えの危険を賭けた途方もない冒険ですが、だからこそ「わたしが与える」という神の主権が強調されています。土地や仕事にばかり目が向かうと休めなくなりますが、休息を命じた神こそが、パンの源なのです。
なお、申命記15章では七年の終わりごとに負債の免除とヘブル人の奴隷解放が命じられています。ですから、七年目は、土地を休ませるということばかりか、すべてのことをリセットしてやり直すという意味があったのです。
25章8節からは「ヨベルの年」の規定が記されます。それは、「安息の年を七回……数えた……四十九年」目の「第七月の十日」、つまり「贖罪(宥め)の日に」、「全土に角笛を鳴り響かせ……五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する」(25:9、10) ことです。
「贖罪の日」は、秋の収穫祭とも言える仮庵の祭りの五日前で、後の時代には、この月が新年の始まりとなり、現代のイスラエルでも「贖罪の日」の十日前から新年が始まっています。
なお「ヨベル」ということばは「角笛」に由来します。シナイ山に主 (ヤハウェ) が下り、律法を与えてくださったとき「角笛」が鳴り響きました (出エジ19:16、19)。それはエジプトの奴隷状態から「解放」され神の民とされた記念です。
その趣旨は何よりも、「自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る」(25:10) という、神が先祖に与えた原初の相続地と自由な身分を回復させることにあります。
そこには、七年に一度のリセットで不十分だったことを徹底的にやり直すという意味がありました。経済活動の自由と共に貧富の格差は必然的に広がります。今も昔も、貧富の格差は世代を超えて拡大して行くのが常で、借金を抱えた人は、先祖から受け継いだ土地を売ったり、自分の息子や娘を奴隷に売ったりして、その日の糧を得なければならなくなります。
しかし、五十年に一度は、神がそれぞれの氏族に平等に土地を分けてくださった原点に立ち返ることができるというのです。
しかも、この年は、この全面的なリセットのために、土地を完全に休ませることが命じられました。この根底にある原則は、イスラエルの土地の真の所有者は、イスラエルの神ヤハウェご自身であり、民にはその土地の管理が任されていたに過ぎないということがあります。
ですからここでは土地を売ることに関し、「彼があなたに売るのは収穫の回数だから」(25:16) と、所有権の売買が、神の主権を侵すものとして退けられ、主の主権を軽んじる者に、「あなたがたの神を恐れよ。わたしはあなたがたの神、主 (ヤハウェ) だからである」(25:17) と宣言されます。
それにしても、このように二年間も土地を休ませると「飢え」の危険が生まれます。それに対し25章21節で主 (ヤハウェ) は「わたしは六年目に……三年分の収穫を生じさせる」と言われます。
これはヨベルの年には、49年目と50年目の、二年間の休耕が命じられていることを前提としてのことばです。ここではヨベルの年を過ぎた九年目の収穫まで、六年目の収穫を食べ続けることができると途方もない約束がされます。
25章23節には「土地は買い戻しの権利を放棄して売ってはならない」と記されます。これはヨベルの年の所有権の回復を前提としてのことばです。「買い戻しの権利」から、ナオミが息子の嫁のルツを通して夫エリメレクの家を再興する話につながります。
その根拠を主が改めて「土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だから」と言われます。これらの規定の背後には、私たちが、土地や財産や仕事以前に、それらすべてを与える主 (ヤハウェ) をこそ仰ぎ見るべきという教えがあります。
「土地は主 (ヤハウェ) のもの」ですから、私たちも「地上では旅人であり、寄留者であることを告白し」(ヘブル11:13) て、仕事の報酬に心を奪われる代わりに、仕事を与えてくださる主を見上げて生きるべきです。
ところで、安息年やヨベルの年が、約束の地でどれだけ守られていたかは疑問です。少なくとも王政では不可能になりました。王を頂点としたピラミッド社会では、土地は恩賞として与えられ、少数の者が土地を所有し、多数の者が奴隷のように土地に縛られ、階級が固定化されました。
しかしそれは本来の神の意図ではありませんでした。日本の戦後の高度成長の背景に、米国の占領軍による財閥解体や農地解放の恩恵があったと言われます。私の父の家は北海道の小作農でした。その状態が続いていたなら、私は大学にも入れなかったことでしょう。その政策の背後に「ヨベルの年」の解放の原則が見られます。
ただし、日本では農地の売買自体が厳しく制限されたため零細農家が固定化され、農業の国際競争力が落ち続ける原因になりました。
しかし聖書では、ヨベルの年を前提とした土地や労働力の売買は認められていたのです。しばしば社会的弱者を保護しようとする善意に満ちた政策が、官僚機構の支配による不正と不効率を招きます。しかし、ヨベルの年の規定では、個々人の経済活動の自由を保証しながら、そこから必然的に生まれる貧富の格差を、定期的に無くすることができました。
現代的には、これは貧富の格差を、世代を超えて受け継がせないための、子供の教育の機会均等などの原則に適用できます。
私たちは誰も、親の影響や自分の過去から自由になることはできませんが、神は、どんな負の遺産も将来の益に変えることができます。神を愛し、隣人を愛する生き方の中では、どんな過去の傷も、神の愛を体験する「恵みの泉」へと変えられ、そこから人の傷に寄り添う愛の力が湧き出ます。
実際、人の悩みに「それは、こうしたらよいでしょう!」という正解を助言しても、それはほとんど役に立ちませんが、様々な苦しみを通して生きることの難しさが身に染みてくるとき、苦しむ人の気持ちに心から寄り添い、問題に対処するための「神の力」を、心から分かち合うことができるようになります。
安息年の教えやヨベルの年の休息とやり直しの教えには、主 (ヤハウェ) こそが、すべての富の源であるという確信が記されています。
3.「のろい」の警告の背後に見られる神の愛の招き
26章には、契約を守る者への「祝福」(3–13節) と、破る者への「のろい」(14–39節) が記されます。当時の支配者と属国の契約文書でも、同じ形式があり、「のろい」の部が長くなるのが一般的でした。
ただ、ここでは40–45節で、契約を破った者への希望が約束されます。それこそが世の契約との決定的な違いです。
14節からの「のろい」の警告ではその条件が、「もし……わたしに聞こうとせず、これらすべての命令を行なわないなら、また、わたしの掟(布告)を拒み、あなたがたのたましいがわたしの定めを忌み嫌い……契約を破るなら」というものです。
ここでは何よりも、私たちの聴く姿勢が問われているのです。神の愛に満ちた御教えを、真剣に受け止めない結果として、契約を破ることになるというのです。
今も、神の御教えを、裁きの基準としての「律法」とばかり見る人々が後を絶ちません。それこそ「のろい」の入り口になります。
第一は「わたしはあなたがたの上に恐怖 (terror) を臨ませ……心をすり減らさせる……種を蒔いても無駄である……あなたがたを追う者がいないのに……逃げる」(26:16、17) です。つまり、神がご自身の御顔を背けられた結果が、恐怖心、焦燥感、無力感として表れます。
ただし、神が私たちに恐怖を感じさせるのは、「もし、これらのことが起こっても……わたしに聞かないなら」(26:18) とあるように、私たちの心をご自身に向けさせるために他なりません。神経の超過敏の人もいますが、それは神の賜物です。自分の感受性を恥じる必要はありません。問われているのは「恐れ」が、私たちの心を神に向けさせているかどうかです。
そして第二は「なおも、わたしに聞かないなら……罪に対して七倍重く懲らしめる」(26:18) と警告されます。そこでは恵みの雨が降らなくなり「あなたがたの力は無駄に費やされ」(36:20) ます。
第三にさらに「わたしに逆らって歩み、わたしに聞こうとしないなら……七倍激しくあなたがたを打ちたたく」(26:21) と警告されます。それは神が「野の獣を放つ」(26:22) ので家畜と人口が急減することです。
第四に「もし、それでも、わたしのこの懲らしめを受け入れず……わたしに逆らって歩むなら、わたしもあなたがたに逆らって歩む……罪に対して七倍重く・・打つ」(26:23、24) と警告されます。それは「あなたがたの上に剣を臨ませ」という外国の侵略で「あなたがたは敵の手に落ちる」(26:25) と記されます。その結果、十人の女が一つのかまどを使って足りるほどまでにパンが不足し、「食べても満ち足りない」という状態になります。
第五に「これにもかかわらず、なおも……わたしに聞こうとせず……逆らって歩むなら、わたしは激怒をもってあなたがたに逆らって歩み」と、これまでの表現を最上級にしながら、「七倍重く……懲らしめる」と四度目に警告されます (26:27、28)。
その結果が、空腹のあまり親が子供を焼いて食べるという空前の悲劇です (26:29)。これはエルサレムがバビロンに包囲された中で起こります。
しかも「あなたがたの聖所を荒れ果てさせる」(26:31) と、主 (ヤハウェ) の住まいであるはずの神殿が異教徒の軍隊によって廃墟とされると警告されます。それは偶像礼拝を憎む神が聖所から立ち去った結果です。
そこでは主 (ヤハウェ) が「その地を荒れ果てさせ……敵はそれを見て唖然とする」ほどになるというのです (26:32)。また主がご自身の民を「国々の間に散らし、剣を抜いて……後を追う」(26:33) とまで言われます。
その結果が再び「地は荒れ果て……町々は廃墟となる」(26:33) と繰り返されます。イスラエルの民はこれらの警告を聞きながら、繰り返し主に反抗し、すべての悲劇を自分の身に招きました。
ダビデとソロモンのもとで豪華な神殿を建て、栄華を極めた王国は、その後二つに分かれ、北王国はアッシリアに滅ぼされ、また栄光のエルサレム神殿はバビロンによって廃墟とされ、人々は捕囚とされました。
ところで、不思議にもこのさばきが、土地にとっては祝福となるという逆説が26章34、35節の原文では、「そのとき、地はその安息を享受 (enjoy) する、その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間に。そのとき、その地は休み、その安息を享受する。地が荒れ果てている間中、地はその休みを取る。それは、あなたがたがそこに住んでいたとき、安息の年に休まなかった休みである」と記されます。
25章では七年目の安息年が命じられましたが、地の休みを命じた神は、それを実行させることができます。つまり、彼らが受ける「のろい」は、神の命令に従って土地を休ませなかった報いであると同時に、それは地にとっての安息の享受となるのです。
これは働き過ぎの人を、神が強制的に休ませることにも似ています。これはすべての病気の原因ではありませんが、目先の収穫ばかりを求める者への戒めと言えましょう。
26章36、37節では、「あなたがたのちで生き残る者にも、敵の国にいる間、彼らの心の中に臆病を送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣から逃れるかのように折り重なってつまずき倒れる……あなたがたは敵の前に立つこともできない」と記されます。
これは神の祝福の内に歩む者が「五人は百人を追い、百人は一万人を追う」(26:8) との勇気が約束されたのと正反対です。ここには神がご自身に逆らう者に敢えて「恐怖を臨ませ」ることで、彼らをご自身のもとに立ち返らせようとする「哀れみに胸を熱くする神」の熱い招きがあります。
そのことが41、42節で「もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。わたしは思い起こす、ヤコブとのわたしの契約を、イサクとの……契約を……アブラハムと契約をわたしは思い起こす。わたしはその地を思い起こす」との祝福の回復が約束されます。
バビロン捕囚を体験したイスラエルの民は、その苦難がレビ記に警告された通りであることを知って、主 (ヤハウェ) に立ち返ることができました。人が体験する恐怖の背後に、神の招きがあります。
第二次大戦中、ユダヤ人を匿ってナチスの強制収容所に送られ、生還したオランダの女性コーリー・テン・ブームは「勇気とは祈られた恐れである」(Mut ist Angst、 die gebetet hat、英訳 Courage is fear that has said it’s prayers) と言いました。「恐れ」は恥ずべきことではなく、祈りを通して真の「勇気」の源泉となるというのです。

