マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」

2012年2月12日

人の心の中には、矛盾した自分が住んでいます。同じ人が、とてつもなく臆病でおどおどとしているときがあるかと思うと、世間体など気にせずに堂々と自分の意見を主張するときがあります。たとえば、私などは、「僕って、鋭い分析力を持つと同時に、すばらしい優しさを備えている・・」などと思うことがある一方で、「自分は愚図でのろまで、偽善者だ。結局、自分のことしか考えていない・・」と自己嫌悪に陥ることさえあります。それがごくたまに、一日のうちに何度も繰り返されることだってあります。 “マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」” の続きを読む

ネヘミヤ9章〜10章「神の真実を思い起こす」

2011年2月5日

キリスト教会では、時に、神のさばきを語り、罪の自覚を強く促した上で、赦しの喜びを告げようとしますが、それは人を委縮させる方向に働きます。しかも、恐怖心によって人を支配するのは、人を奴隷状態に留めることに他なりません“ネヘミヤ9章〜10章「神の真実を思い起こす」” の続きを読む

マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」

2012年1月29日

私たちは多くの場合、自分の力の限界や心の醜さを示され、「より良い人間になりたい・・」と願ってイエスを救い主として告白するように導かれました。しかし、そこから矛盾が始まります。この世には、立派で力のある人々は数多くいます。そこで私たちは、そのような人々に劣らない、「良い人」と評価されることが何よりの証しになると思うようになり、生真面目な、失敗を恐れる臆病な生き方に走ることがあります。 “マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」” の続きを読む

約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年冬号より

霊性神学の分野で有名なユージン・ピーターソン氏は、詩篇120-134篇の「都上りの歌」の解説書の表題に、無神論哲学者ニーチェのことばを用いました。それは、“A Long Obedience in the Same Direction(長期にわたる同一方向への服従)”というものです。ニーチェは、キリスト教は弱者の道徳であり、負け犬の遠吠えのような態度を肯定し、人間に本来与えられている「生きる力」を減らし、愚民化する方向に働いていると非難しました。ピーターソン氏は、現代のクリスチャンが、しばしば、身近な解決策ばかりを求め、結果を待つ忍耐心が欠けてゆく傾向にあることに心を痛め、ニーチェの警告にも耳を傾ける必要を感じたのだと思われます。ニーチェは、「無事安泰を願うとは、人間の没落を望むことであり……苦悩の、大いなる苦悩の訓練 ― ただ、この訓練のみが人間のすべての成長を創り出した」と言いました。 “約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です” の続きを読む

ネヘミヤ5章1節〜7章4節「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」

2012年1月8日

16世紀の甲斐の大名の武田信玄のことばに、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」ということばがあり、これが1961年に作られた民謡歌曲では、「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」と歌われています。信玄は強固な城を築くよりも家臣たちとの心の繋がりこそが最大の防御になると信じました。そして、徳川家康は信玄に敗北することを通してそれらの原則を学び、それが徳川幕府の長期政権へと結びつきます。 “ネヘミヤ5章1節〜7章4節「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」” の続きを読む

Ⅱコリント4章1〜18節「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」

2012年1月1日 元旦

私たちは年の初めに、「今年こそは、良い年でありますように」と祈りたいものです。それは当然ことで、そのように祈るのは決して間違ってはいません。しかし、毎年、振り返ってみると、一つや二つ、「なんでこんなひどいことになってしまったのか・・・」と思うようなことが必ず起きています。

昨年の年末はいろんな番組で原発事故を振り返る特集が組まれていました。それを見て改めて日本人は、想定外のことを想定するという能力に欠けている民族ではないかと思わされました。そして、私自身も、極めて日本人的であると思わされています。 “Ⅱコリント4章1〜18節「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」” の続きを読む

イザヤ11章1〜10節「神の平和を完成する救い主」

2011年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝

信仰に導かれた二十歳過ぎのとき、僕にとっては、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4:4)というみことばがとっても新鮮でした。でも信仰生活が長くなるうちに、それが偽善のように思えてきました。 “イザヤ11章1〜10節「神の平和を完成する救い主」” の続きを読む

マルコ8章1〜21節「主がともに歩んでくださる人生」

2011年12月18日

私たちは「平安の祈り」において、「この世においては、適度に幸せに、来たるべき世界においては、永遠に主とともに住み、最高に幸せになることができますように」と祈っています。それは私たちが、「地上では旅人であり寄留者であることを告白して」いることを意味します(ヘブル11:13)。 “マルコ8章1〜21節「主がともに歩んでくださる人生」” の続きを読む

ネヘミヤ3章〜4章「祈りつつ、助け合いつつ、備えつつ」

2011年12月11日

聖書では、安息日の教えから始まって、季節ごとの様々な祭りなど、休むことが神の前での義務とされている日々が数多くあります。長い人生を短距離走のように走り抜けようとすると、自分の身にも周りにも様々な害を及ぼします。しかし、人生には多くの人々とともにビジョンを共有しつつ助け合って果敢に行動すべき時があります。しかも、そのような時には、必死に働きを妨害しようとする勢力も生まれますから、それに対する備えも必要です。そして、すべての基礎に、神への祈りが必要です。 “ネヘミヤ3章〜4章「祈りつつ、助け合いつつ、備えつつ」” の続きを読む