イザヤ51章1節〜52章2節「さめよ、さめよ」

2010年9月5日

「泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)、たった四はいで夜も眠れず」という、宇治の高級茶と黒船をかけた狂歌が、江戸時代の末期の日本の現実をよく現しています。現代の日本も、目覚める必要があると言われています。しかし、なかなか方向が見えていないという現実があるのではないでしょうか。本日の箇所では、三重の「さめよ」という呼びかけがなされています。その第一は、不思議にも、まるで眠っているように見えた「主の御腕」に向かっての「さめよ」という語りかけです。多くの人が祈りの時間も惜しんで忙しく動き回っています。しかし、真剣に神に訴え続けることこそすべての始まりです。第二は、酒に酔って現実を見ていない人への「さめよ」という語りかけ、そして、第三は、絶望に打ちひしがれている人に希望を生み出すという意味での「さめよ」という呼びかけです。 “イザヤ51章1節〜52章2節「さめよ、さめよ」” の続きを読む

イザヤ49章14節〜50章11節「私の耳を開いてくださる方」

2010年8月22日

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。人によっては、これが「存在するな」という自己否定の言葉と結びついて、「人を喜ばせている限りは生きていて良い・・そうでなければ、生きている資格がない」というささやきを聞き続けるということになります。 “イザヤ49章14節〜50章11節「私の耳を開いてくださる方」” の続きを読む

イザヤ48章12節〜49章13節「あなたの平安は川のようになったであろうに」

2010年8月1日

多くの人々は、天国の祝福よりも、地上の歩みにおける平安を求めています。そして、不思議にも、旧約聖書では、死後の希望に関してはほとんど記されていません。そこには、地上的な、苦しみと「平安」のことが書いてあります。そして、それは実は、新約にも一貫していることでもあります。聖書はこの世の人に向けての書なのです。 “イザヤ48章12節〜49章13節「あなたの平安は川のようになったであろうに」” の続きを読む

イザヤ47章1節〜48章11節「破滅への道と祝福への道」

2010年7月25日

米国滞在中にシリコン・バレーの大手企業に働く当教会員の夫N兄のオフィスを見させていただきました。その企業は20年前に株式が上場されたばかりですが、現在は四万人の従業員を抱え、インターネットシステムのインフラ装置を供給する世界最大の会社です。興味深かったのは、30もの建物が、極めて簡素に、何の特徴もなく同じように建てられていることでした。それは、いつでもオフィスビルを手放し、売却できる備えのためであるというのです。彼らは20年後にも自分の会社が安泰であるなどという幻想は持っていません。そこにアメリカの活力を感じました。 “イザヤ47章1節〜48章11節「破滅への道と祝福への道」” の続きを読む

イザヤ45章15節〜46章13節「胎内にいるときから担われている私」

2010年6月27日

私たち福音派の教会では、イエスを救い主と告白したときから、神の子とされ、新しい人生が始まったという意味で、「救いの証し」を分かち合います。その中で、つい、昔の自分や、生まれ育った家庭環境を悪く描きすぎる傾向があるかもしれません。 “イザヤ45章15節〜46章13節「胎内にいるときから担われている私」” の続きを読む

イザヤ44章23節〜45章15節「神の不思議な救いのご計画」

2010年6月13日

アメリカ北部でのことですが、高速道路を走っているある家族の車に鹿が飛び込んできて、車が大破しました。その車に乗っていた7歳の男の子は、「どうして神様は守ってくれなかったの?」と言ったそうです。それに対して、13歳の次女は、「神様が守ってくれたから、誰も怪我をせず、大事故にならずに済んだんだよ!」と答えたとのことです。今日の箇所では、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」(45:15)というイザヤの告白があります。聖書にご自身を啓示しておられる神は、同時に「ご自身を隠す神」でもあります。その結果、同じ出来事が、7歳の男の子には、神がご自身を隠しているように見え、13歳の少女には、ご自身を啓示しておられるしるしと見えました。 “イザヤ44章23節〜45章15節「神の不思議な救いのご計画」” の続きを読む

イザヤ42章10節〜43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」

2010年5月16日

私たちの周りには、確かに、平気で嘘をついたり、平気で人を裏切ったりする人がいます。しかし、そのような人の歴史をみると、しばしば、彼ら自身が、あまりにも軽く扱われてきたということがわかることでしょう。キリスト教は、罪を指摘し、罪からの救いを教える宗教と言われますが、旧約の流れから見ると、神がどのようなことに最も厳しく怒っておられるかが見えてきます。 “イザヤ42章10節〜43章13節「わたしの目には、あなたは高価で尊い」” の続きを読む

イザヤ41章1節〜42章9節「たじろぐな。わたしがあなたの神だから」

2010年5月2日

私たちはみな、様々な恐れに囚われて生きています。しかし、私は長い間、自分の心の中にある漠然として「恐れ」を無視して生きてきました。確かに、傍から見ると、私は自分で自分の道を次々と切り開いてきた人のように見られることでしょう。自分でも「僕は臆病ではない!」と言い張りたい気持ちがあります。 “イザヤ41章1節〜42章9節「たじろぐな。わたしがあなたの神だから」” の続きを読む

イザヤ40章「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

2010年4月18日

私たちは基本的に自分の力を、他の人との比較で計ります。そのため人の心の中には、以下の詩にあるような醜い思いがあるのではないでしょうか。「もし私の隣人が 私より強いならば、私はその人を怖れる。/ もしその人が 私より弱ければ、私はその人を軽蔑する。/ もし私とその人とが 同じであれば、私は詭計に訴える。/ 私がどのような動機をもっていたら、その人に服従することができ、/ 私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン) “イザヤ40章「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」” の続きを読む